スクリーンから消えたものは何か
2023年01月30日
つかこうへいからの「ひとり立ち」 から続きます。
1986年という年を振り返るとき、つかこうへいの仕事で、どうしても触れておかなければならないものがある。
6月に公開された映画『熱海殺人事件』だ。
70年代半ばから80年代の頭にかけて一大ブームを巻き起こした、つかの芝居の中で、代表作と言えばやはり『熱海殺人事件』ということになるだろう。
74年に岸田戯曲賞を受賞して、つかが世に出るきっかけとなり、『劇団つかこうへい事務所』では、ホームグラウンドとも言える紀伊國屋ホールで繰り返し上演され、その人気のベースとなった作品である。
そんな『熱海~~』の映画化は、先に映画となった『蒲田行進曲』の大ヒット以降、あちこちで企画に上がったようだが、実現することはなかった。
ようやくそれが具体化するのは、1985年になってからだ。動いたのはフジテレビのディレクター、高橋和男である。
80年のドラマ『弟よ』で知り合い(といっても高橋は応援のような立場で顔を出していただけだが)、つかはよほど馬が合ったのか、以来、身内のような付き合いをしてきたのが高橋だった。
『つかこうへい正伝 1968-1982』の中で、僕は高橋と、同じフジテレビの李家芳文のことを、
「つかが〝つかこうへい〟という立場を離れて、純粋に〝友人〟として接することのできた関係」
と、説明した。
「自分の知る限り、つかにとってそんな存在は、生涯に亘って彼ら二人だけではなかったか」とも。
この連載でも、僕を含めた四人で酒や麻雀を目的に、週に二、三度は必ず顔を合わせていたことや、この85年に高橋が我々の劇団の手伝いをしていた会田由美子と結婚し、その仲人をつか夫妻が務めたことなどを書いたはずだ。
しかし高橋の中には、どれだけ親しく接して来ようと、単なる遊び仲間ではなく、映像の仕事に携わる人間として、つかこうへい作品を手がけることへの思いが常にあったという。
そしてようやくそれを投げかけた時、つかは「監督・高橋和男」での映画版『熱海殺人事件』を快く了解したのである。
◆これまでの連載はこちらからお読みいただけます。
まず高橋が相談したのは、以前から面識のある独立映画プロのプロデューサー、松本廣だった。松本は前年公開された菊地桃子のデビュー作「パンツの穴」という青春コメディで、ヒットを飛ばしたばかりであり、その関係からまずジョイパックフィルムでの配給が決まる。
僕はまるでタッチしなかったが、つかは85年の春から、映画版『熱海殺人事件』の脚本を書き始めていて、同時にキャスティングも進んでいたようだ。
舞台では風間が演じた役だが、映像となると年齢的に無理があり、風間はその部下である若手の刑事、熊田留吉役に回ることになったのだ。
何人かの候補の中、最終的に仲代達矢に白羽の矢が立ったのは、高橋が何度か仕事をし、仲代の主宰する無名塾とも若い頃から縁が深かったからだという。
つかは一も二もなく乗った。日本の演劇界、映画界の大御所が伝兵衛を演じるというこの配役に、つかが子供じみた高揚を隠さなかったろうことは、たやすく想像がつく。
それによって脚本は、「仲代=伝兵衛」をいかなるキャラクターに仕立て、観客をあっと言わせるか、その前提で書き進められていくことになる。
ただ最後まで難航したのが、犯人大山金太郎役である。
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