天野康代(あまの・やすよ) 弁護士
横浜市出身。2006年弁護士登録。慶應義塾大学大学院において犯罪被害者の刑事手続き関与について研究していたが、実務に興味を持ち弁護士となった。神奈川県弁護士会所属。民事・家事事件等の一般的な弁護士業務のほか、犯罪被害者支援にも力を入れて取り組んでおり、日本弁護士連合会犯罪被害者支援委員会事務局委員、神奈川県弁護士会犯罪被害者支援委員会副委員長などを務めている。
※プロフィールは、論座に執筆した当時のものです
「報道の自由の罪」というテーマを聞いたとき、私に書けるのかなと思った。
犯罪被害者支援に携わり、被害者や遺族の代理人として活動しているが、私のこれまでの経験といったところで限界がある。
そこで、他の弁護士仲間にも協力を仰ぎ、報道の担い手である報道機関から被害者等がどのような「被害」を受けたのか具体的に記載することの了承を得た。もっとも、事実以外の意見にわたる部分は完全な私見であり、被害者支援に携わる他の弁護士や被害者・遺族らの中には違う意見をもつ方もいることを予め断っておきたい。
昨今、犯罪被害者等に対する取材方法や、被害者の実名報道、さらにはその報道内容に対しても批判されることが増えている。
批判の声をあげるのは被害者等だけではない。SNSの発達などによって個人の意見表明が容易となり、市民からも報道機関に対する批判の声が目立つようになっている。すなわち、こと被害者報道に関しては、情報の受け手である一般市民=知る権利の主体からも批判されているのであり、報道機関が錦の御旗として掲げる「知る権利に奉仕する」ということの意義は、情報の受け手と送り手との間で乖離しつつある。
このような報道の自由の基礎が揺らぎかねない危機的状況の中、報道機関は被害者報道とどのように向き合うべきなのか。悲惨な事件が二度と起きないような社会にしたいと、向いている方向は同じはずなのに、取材される側とする側との間にある大きな溝をどのように埋めていくのか、それとも端から溝などないことにしてしまうのか。
私は、報道機関がこれまでの価値観を見つめ直す時期にきているのではないかと思う。
そもそも「報道被害」とは何か。報道機関が「被害」と考えなくても、被害者等が「被害」と感じるものもある。
被害者等が、どのようなことを負担と感じ、傷つき、「被害」と捉えるのか。私たち弁護士が実際に代理人として被害者等から聴き取った、取材・報道各場面での具体的な「被害」の声を紹介したい。
*複数の会社の記者に何度も自宅を訪問され、早朝・夜間を問わずインターホンを鳴らされた。帰宅時には周囲から記者たちが出てきて取り囲まれた。
*身内が事件で亡くなり被害者宅に泊まったが、在宅していることが分かると記者が来るため、日中は窓を開けられず、夜間は極力灯りを点けずにカーテンを閉め切って灯りが漏れないようにした。
*記者が近所の住民を取り囲んで取材をしており、近所の人たちにも迷惑をかけているのではないかと申し訳なく感じる。自宅近くにカメラを持った人がいると、撮影されないか不安になり、家の外に出ることができない。
*ゴミ集積所にゴミを出すと中身を調べられはしないかと心配になり、ゴミ出しができなくなった。
*事件から数年が経っても、インターホンが鳴ると不安になり応答したくない。
*記者が、被害者の写真を示して、自分の子どもで間違いないか確認してきた。なぜ記者が自分の子どもの写真を持っているか分からず、子どもが亡くなった事実を突きつけられているようで非常に辛い思いをした。
*被害者の実名報道により、インターネット上で被害者に関する様々な書き込みがなされた。その中には事実でないことも含まれ、遺族が読んでいて傷つけられる内容のものもあった。
*被害者の実名報道により、葬儀場の看板から被害者の葬儀であることが分かり、見ず知らずの参列者が来て葬儀が混乱した。
*子どもは事件について配慮することが難しいところ、亡くなった被害者に学齢期のきょうだいがいた事件では、被害者の実名報道がされたことで転居を余儀なくされ、その後は名前を変えて通学しなければならなくなった。
*テレビで自宅周辺の映像が流れ、複数の記者が自宅に来ていたこともあり、誰が自分の住所を知っているのか分からず不安で転居を考えた。
*事件発生直後、遺族が匿名を希望したにもかかわらず実名報道がなされ、その後、強制性交殺人であることが判明した。公判では被害者名が匿名になったが、インターネット上では実名や写真、その他個人情報に属するものなどが公開されたままになっている。
このように、被害者等は、取材や報道の場面で、様々なことを「被害」と感じている。「被害」とは言わないまでも、自宅周辺に記者が飲んだと思われる飲料の空き容器等が散らかっていたり、応対しないことに怒ったのか壁を蹴ったりする記者に不快感をもったとか、遺族の思いの中ではまだ生きているのに、取材申し入れの際に「亡くなった」「亡くなった」と繰り返し言われるのが辛いという声も聞いたことがある。