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「スクープ」とは何か~新聞社は「時間差スクープ」の呪縛を解け!

「スクープの基準がない」ことが権力監視のジャーナリズムを阻んでいる

高田昌幸 東京都市大学メディア情報学部教授、ジャーナリスト

 検察庁人事をめぐる問題で「権力と記者の関係」が厳しく問われている。それに関連し、筆者は『黒川検事長と賭け麻雀をした記者は今からでも記事を書け』『リークとは何か〜当局はジャーナリズムを使って情報操作する』という2本の拙稿を記した。「ジャーナリズムは何のために存在するか」という古くて新しい課題を再整理するためである。今回は「スクープ」を軸に考えたい。

「ほかの者が知らない」「出し抜く」

 衰退が著しいとはいえ、日本の新聞社には約1万8000人もの記者がいる(日本新聞協会の2019年データ。同協会の調査に回答した96社の合計)。業界単位でみれば、記者数は依然、テレビや雑誌、新興のネットメディアなどを凌駕している。日本における取材手法や報道の文化などは、そうした新聞記者たちによって創られてきた。記者数のデータを見ると、それを実感できよう。

 その文化のひとつ、「日本の新聞界におけるスクープ」とは何だろうか。結論を先取りして言えば、日本の新聞は社内でも業界内でも、「スクープとは何か」を深く考えず、基準を持たず、したがって明確な定義を市民社会に示すこともなかった。それに起因する歪みが今、あちこちで噴出している。

 国語辞典などを見てみよう。それによると、「スクープ」の定義はこうだ。

 [スコップですくいとる意] 報道記者が、他の記者の知らぬうちに重大ニュースをさぐり出して報道すること。また、その記事。特種(とくだね)。「汚職事件を―する」(三省堂『スーパー大辞林』)
「新聞・雑誌などで他社を出し抜くこと、特ダネ」(朝日新聞社『知恵蔵』)

 他の辞典類も似たような語義である。ポイントは「ほかの者が知らない」「出し抜く」にある。ライバルに先んじて報道すれば、その内容や方向性がどうであれ、全てスクープであると辞典類は語っている。

 しかし、「ジャーナリズムの本務は権力監視である」を前提に考えれば、これらの語義は「他社に先んじての報道なら内容は二の次か」という問題点を抱えている。

 報道業界でよく使われる言葉に「時間差スクープ」がある。やがて公式に発表される内容を先取りして報じるために、取材に人と経費を費やし、その成果を誇ることをいう。事件事故報道にその傾向が強く、「●●をあす逮捕へ」といった類の記事が該当する。行政や政治、経済の分野でも、こうした記事は頻繁にお目にかかる。

 実際、新人記者は現場に出た途端、この考えを身をもって知る。あるニュースを他メディアより先に報じれば、先輩や上司からは称賛される。叱責はあり得ない。他社を出し抜くことができたのは、日頃から頑張っているからこその結果であり、公式発表やイベント的な出来事の取材に傾斜する記者とは努力の程度が違う。

 他方、権力の不正や社会の不公正を明るみに出す記事も、他社に先行していれば当然、スクープとなる。ジャーナリズムの本務に沿ったスクープと、時間差スクープ。同じスクープだからと言って、この2つを同列に社内評価していれば、どうなるか。

新聞社が検察担当記者に求める仕事

 この問題に関連し、朝日新聞の板橋洋佳記者は大阪社会部に所属していた2011年、筆者の長いインタビューに答えたことがある。板橋記者らは当時、大阪地検の特捜部検事による証拠改ざんをスクープしていた。自らの捜査ミスを隠蔽するため、証拠のフロッピーディスクを検事が改ざんし、被告を有罪に追い込んでいこうとした事件である。

 板橋記者らは、地道な調査報道取材によって検察権力の闇を暴き出し、日本検察を震撼させた。その取材過程で板橋記者は「捜査段階で証拠改ざんを明るみに出せていたら、濡れ衣を着せられた人たちは傷つかずに済んだはずだ」と自らを省みてもいた。

 筆者のインタビューで、板橋記者は以下のような内容を語っている。拙著『権力VS調査報道』(旬報社)に詳しく載せているが、要点を示そう。

 他社も同じでしょうけれど、朝日新聞社という組織が検察担当記者に求める仕事は何か。その最大の眼目は「捜査の動きをつかむ」ということです。これを最もやらなければいけない。それが仕事のメインです。公判になると、検察担当の仕事はだいたい終わる(裁判担当記者が引き継ぐ)ので、一種のフリーになります。その段階で、僕は「自分の価値観でもう1回あの捜査を検証しよう」と思った。
 僕はよく「証拠改ざんをもっと早く記事化できればよかった」と反省で言っていますが、一方では、捜査段階の取材で本当にその情報を取れただろうか、とも思う。捜査段階でどこまでそんな情報を入手できるだろう、入手できたとしてどこまで記事にできるだろう、と。逆に言うと、なぜ、捜査情報が取れるかというと、記者側からすれば、「捜査の情報を教えてください」という構図での人間関係ができているからです。上司に最初から「捜査の不正やミスを見つけるためにおまえは検察担当になれ」と言われたら、相当厳しい。取材現場でも、いきなり、「あなた方は捜査ミスを隠蔽しているでしょう?」と言っても何も動かない。夜回り取材で検察幹部に会って、「どうですか、捜査ミスがあるでしょう」と聞いたって、「おまえは何だ」という程度で終わりです。そういう現実の状況があるわけです。
 捜査情報を得るための、捜査段階での通常の取材がなかったら、証拠改ざんの情報も取れなかったと思います。当たり前のことですが、捜査段階での取材から人間関係を作っているからこそ、捜査がおかしいと感じたなら、「あの人は関わっているに違いない」「ここから聞けばいいはずだ」ということがわかる。そういう細かな関係が頭に入っていないと、小さな事実を積み上げて不正に迫る取材はできないでしょう。

 この後、筆者はこう問い掛けた。「事件報道は必要だけど、捜査当局の動きを追っかける報道はもっと抑制するべきだ。事件報道は、その社会的意味や背景を問うもの。しかし、現状は捜査の途中経過報道に過度に傾斜している」という内容だ。

 それに対する板橋記者の回答は「スクープの基準がない」という核心を突いていく。長くなるが、もう少し当時の取材記録を引用する。

「他社より先」なら、みんな同列に評価

 (捜査の情報を報じることに傾斜しすぎだと)僕も思います。(時間差スクープを優先しているから)取材元を当局に頼り過ぎています。当局者と仲良くなることのみに重点を置く記者が増え、新聞社内でもそれが大きな物差しになってきた。証拠改ざん報道で僕が重要だと思ったのは、新聞社組織の中に、本当のスクープとは何か、という定義がないことです。これ、結構大きな問題です。スクープの定義がないということは、「明日は逮捕」という形の、いわゆる前打ちもスクープ、発表ものを発表前に半日早く書くこともスクープ。他方、大阪地検の証拠改ざん報道もスクープです。おそらく、「調査報道とは何か」の研究をしていくと、「スクープとは何か」という話になると思います。もちろん、その記者しか暴き出せない埋もれた事実を明らかにすることが本当のスクープだし、それはみんな、頭ではわかっているでしょう。けれども、それを念頭に社内でスクープの基準を明確に使い分けているかというと、そんなことはありません。

 「他社に先んじて」をスクープの評価基準にしていくと、調査報道による権力監視のスクープも、取材相手に食い込んで得られる時間差のスクープも、同列になってしまう。そこには、ジャーナリズムの本務に沿った報道かどうかの基準はない。

 そして取材記者なら誰でも体験的に知っている通り、たいていは「時間差スクープ」のほうが「権力監視のスクープ」よりも容易に実現できる。

 板橋記者は続けてこう言っている。

 そうです、そこです。だから、本当に新聞社の力が試されるのは、警察裏金報道みたいに、権力の不正を明るみに出す報道だったり、アンフェアな社会の問題を長く書き続けるキャンペーン報道だったりするわけです。そこに報道の本当の役割がある。でも、今は、新聞社組織の中では「他社より先」がすべて。「他社より先」であれば、みんな同列に扱われ、評価されていると思います。

「時間差スクープ」で出世してきた記者たち

 板橋記者へのインタビューから10年が過ぎ、メディア環境は大きく変わった。インターネットには新興のニュースメディアがあふれ、大手マスコミのサイトも交えながら、次から次へとニュースが発信されている。

 日本へのiPhone上陸から間もない2010年ごろは、まだぎりぎり、「うちが一番早かった」といった評価はマスコミ内部で意味を持っていたかもしれない(その当時でも、どのメディアが一番早かったかを新聞評価の基準にする市民はほとんどいなかったと思うが)。

 そんな時代はとうに過ぎ去った。あり余るニュースサイトを比較しながら、「『あす逮捕へ』の報道が一番早かったのは●●新聞だ。さすがだ」といった評価を下す読者・視聴者は皆無だろう。マーケット情報や経営に直結する経済ニュースを扱う日本経済新聞社、速報を最重視する通信社などは別として、国民は一般マスコミに「時間差スクープの最優先」などを望んでいまい。

 朝日新聞パブリックエディターの山本龍彦氏(慶応大学教授)は6月16日朝刊『パブリックエディターから 新聞と読者のあいだで』に『報道倫理 時代に追いついて』と題する一文を寄稿し、こう記している。

 近年、一般企業にも高い倫理意識が求められるようになり、社会の至る所で「これまでの常識」が通用しなくなってきている。社会が大きく変化するなかで、報道倫理だけが聖域化してよいとする理由はない。もともと、記者が内部で共有してきた倫理と、読者が素朴に信じてきたあるべき倫理との間には深い溝があり、両者が没交渉のまま平行線をたどってきたように思われる。

 山本氏の指摘する「記者が内部で共有してきた倫理と、読者が素朴に信じてきたあるべき倫理との間には深い溝がある」という構図は、「スクープ」についてもピタリと当てはまるように見える。

 ところが、保守的・官僚的で事なかれ主義の蔓延した新聞社は、「時間差スクープ」と「調査報道スクープ」を同列に扱う文化についても、それを宿痾のごとく組織内に残してしまった。権力や当局者と二人三脚で歩み、取材先と折り合いを付けながら歩んだ者が、出世街道を驀進していく構図である。

 社会部なら警察・検察担当、政治部なら官邸・与党担当、経済部なら財務省・日銀担当。社内競争を勝ち抜く者たちは、おおむね、そんなカテゴリから輩出されてきた。そうした会社員記者の多くは「時間差スクープ」を次々とものにしてきたはずだ。

 それらの記事群は、結果として当局の情報操作に利用されていたことも少なくなかろう。件の「賭け麻雀」についても、権力監視型のスクープとして結果が出ていない以上、宿痾の1シーンとして位置づけたほうがわかりやすい。

 「石橋湛山記念 早稲田ジャーナリズム大賞」や「日本新聞協会賞」、「日本ジャーナリスト会議賞(JCJ賞)」といったジャーナリズム関係のアワード受賞作を過去にさかのぼって眺めていると、権力の不正を暴いたり、社会のアンフェア構造を足元から射抜いたりする報道が、相当程度、受賞してきたことが分かる。

 アワードという限られた世界では、ジャーナリズムの外面はかろうじて維持されているのかもしれない。ただし、全国紙を中心に、そうした報道の勢いは確実に衰えているし、他方、「時間差スクープ」に対する組織内評価は揺るがぬままだ。

新聞社は「スクープ」と評価した理由を公開せよ

 では、何をどうすべきなのか。一例を示せば、こんな試みはどうだろう。

 スクープに関する社内の評価基準を読者・国民に明らかにし、実際、それぞれの記事が社内でどう評価されたかを外部に伝えることだ。

 どのメディア企業も「社長賞」「編集局長長」「部長賞」といった賞を設けている。それらを獲得した報道と経緯を周知することはすぐにでも可能だ。

 また、どこの新聞社も自社の報道などを点検し、自己評価するシステムを持っている。筆者も現役の新聞記者時代は、編集局内の紙媒体「審査報」を楽しみにしていたし、教えられることも多かった。同業他社の仲間から「審査報」的なものを見せてもらい、うなずいたり、社内文化の同一性に落胆したりしたこともある。こうしたものも公開は可能だ。

 朝刊や夕刊ごとに、1面や経済面、社会面などの編集方針を読者に伝えることもできる。なぜ、この記事をトップ扱いにしたのか。なぜ、こっちの記事は小さな扱いなのか。本日の紙面に「スクープ」はあるのか。あるとしたら、どの記事がそれに該当し、なぜスクープと判断したのか。それらを可能な限り説明していくのだ。

 「無農薬の果物です」とうたいながら、決して農場や選果場を見せない果物を消費者は信用するだろうか。商品の製造プロセスは、可能な限り見せたほうがいいに決まっている。報道現場や報道企業の問題点は、もう何年も前から見えているのだ。議論も尽くされている。あとは「やるか、やらないか」だけである。