大木毅(おおき・たけし) 現代史家
1961年東京都生まれ。立教大学大学院博士後期課程単位取得退学。専門はドイツ現代史、国際政治史。千葉大学などの非常勤講師、防衛省防衛研究所講師、陸上自衛隊幹部学校(現・陸上自衛隊教育訓練研究本部)講師などを経て、現在、著述業。著書に『「砂漠の狐」ロンメル』、『ドイツ軍攻防史』、『独ソ戦』、『帝国軍人』(戸髙一成と共著)、訳書に『ドイツ国防軍冬季戦必携教本』、『ドイツ装甲部隊史』など多数。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
【3】ジョージ・S・パットン大将(合衆国陸軍)
オールド・ファンには懐かしいアメリカ映画『パットン大戦車軍団』(1970年公開)のオープニングは強烈である。巨大な星条旗を背にして、パットン将軍が現れ、物が映るほどに磨きあげられたヘルメットや長靴、乗馬鞭、象牙の柄の拳銃がクローズアップになる。ついで、パットンは兵隊言葉で語りだす。ここで観客は、麾下の将兵に擬せられるのだ。
その内容は、すさまじいまでに好戦的な勝利至上主義である。名優ジョージ・C・スコットの好演も相俟って、観客は、なるほど、パットンは名にし負う猛将だと印象づけられる。当時のアメリカ社会に流布していた将軍のイメージを凝縮した、巧妙な演出であろう。
しかし、かかるパットン像(それは、本人が意識して広めた自画像でもあるのだが)は、実のところ、この歴史的存在の一面だけを切り取っているにすぎない。彼の人となりを仔細に追ってみれば、パットンが、いわば複雑な多面体であることがわかる。意外なことではあるけれども、「猛将」にふさわしからぬ、繊細な部分があることがあきらかになるのだ。本稿では、そうした別の面に注目して、将軍の生涯を概観していくこととしたい。
のちに合衆国陸軍大将となるジョージ・スミス・パットン・ジュニアは、1885年11月11日、カリフォルニア州サン・マリノにあった、1800エーカー(約730万平方メートル)の敷地面積を誇る「ウィルソン・パットン」牧場で生まれた。
実は、パットンは、その粗野な言動から想像されるような、叩き上げの指揮官などではない。南部の名門の家柄で、裕福な一族の御曹司だったのである。その先祖は、1769年ごろに新大陸に渡ってきたスコットランド人であった。それが商人として成功し、財を成したのだ。ところが、南北戦争で南部連合に与したことから、一時窮乏したものの、1866年にカリフォルニアに移住したことをきっかけに、再び家運を盛り返していたのだった。また、パットン家は、多くの軍人を輩出した一族でもあった。
その家の総領息子であるジョージは、当時の名門家庭の慣習のまま、学校に行かず、祖父や両親、伯母、家庭教師に、さまざまなことを教わって育った。昼間は、乗馬や剣術、ライフル射撃、夜は『イーリアス』や『オデュッセイ』、プルタルコスの『対比列伝』(いわゆるブルターク英雄伝)などを読み聞かされるのが、彼の日課だったのである。
かくのごとく、何不自由なく育ったかにみえるパットンだったが、ただ一点の陰りがあった。文字の読み書き学習が著しく遅れていたのだ。かつてのパットン伝のなかには、この点を指摘して、彼は失語症だったのではないかと疑う向きもあったが、これは、システマティックではない家庭教育の欠点が反映されただけのことだったようで、青年期に克服されている。ただし、幼少年期の文字学習の遅れはあとあとまで悪影響を残したとみえ、パットンの書簡などにしばしば綴りの間違いがみられるのも事実だ。
ともあれ、11歳になったパットンは、私立の「スティーヴン・クラーク少年学校」に通うことになった。初めての学校生活は6年間続く。そこでは、頭の良い子で、軍事史の書物を広く読んでいるという評判を取った。この時期、彼はもう軍人になると心を決めていたのである。
1903年、パットンは、ヴァージニア軍事学校(ミリタリー・インスティテュート)に入学した。アメリカには、正規のウェスト・ポイント陸軍士官学校以外にも士官学校があり、ヴァージニア軍事学校は、そのなかでも名門である。さらに翌年には、ウェスト・ポイント陸軍士官学校に転じる。けれども、パットンの成績は芳しいものではなかった。数学が不得手で落第し、一年生をやり直すはめになったのだ。だが、パットンは座学こそ並の成績だったものの、教練には秀でており、やがて落第生の汚名を返上した。2年目以降は成績良好で、1908年には生徒隊副官に任命されている。