赤木智弘(あかぎ・ともひろ) フリーライター
1975年生まれ。著書に『若者を見殺しにする国』『「当たり前」をひっぱたく 過ちを見過ごさないために』、共著書に『下流中年』など。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
作品性を考えれば、女性に墜落制止のためのフルハーネスを付けてヘルメットを被らせるようなことはしたくないのはもちろん理解できる。
それならば、もし落ちても大丈夫なように下にネットを張って、さらにマットを敷く。事故があっても他のパフォーマーが巻き込まれないような配置をする、といったできる限りの安全確保は行うべきである。それすらできないなら、そもそもその場所は人を吊るアートパフォーマンスを行うべき場所ではないのである。
一方で、安全性に疑問を呈する批判に対して「アートだから……(大目に見よう)」や「演者が納得しているならいいのでは?」と諫める人も少なくなかった。
こうした意見に対しては「そういう甘い考え方は、いずれ通用しなくなるから早めに認識を改めた方がいい」と主張したい。
最近は「サステナブル」という言葉がよく使われる。日本語にすると「持続可能性」という意味合いになる。僕はアートなどに対しても、今後は持続可能性に対する取り組みを明確にしない作品は社会的に受け入れられなくなると考えている。
映画業界では「#MeToo」による、プロデューサーや監督、大物俳優といった権力者のハラスメント行為に対する告発が相次いでいる。こうした告発を「個人的な恨み」と考えて、騒動による作品上映が中止されると「誰かの恨みで、作品そのものが貶められるのはおかしい」と主張をする人も多い。
しかし僕は#MeTooのような流れは「映画産業が今後も続いていくために必要なプロセス」であると考える。プロデューサーや監督、大物俳優といった一部の人が現場を支配し、女優に平気でセックスを要求したり、それに応じた女優が抜擢されるようないびつな労働環境ではなく、多くのプロフェッショナルが自分の持てる技術を真っ当に発揮できる労働環境が維持されることが、今後の映画産業の発展にとって絶対に必要なのである。
そしてそれは緊縛アートについても同じである。
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