
講演する辺見庸氏=撮影・筆者
12月18日(火) 午前中に「報道特集」の定例会議。虚ろな気持ちが流れる。今日で満65歳になった。きのうと今日では何の違いもない。年齢という区切りは、ある種の認識の整理のきっかけにはなる。絶対的な孤独と向き合うこと。そのことを苦業と感じない強さが自分には必要だ。
局から貸与されているパソコンを新しいものに換えてもらう。今までのものが耐えがたいほど重く遅くなった。何だかもろもろの気分を変えたいと思い、一度帰宅してプールで泳ぐ。心身のバランスを保つためだ。
その後、18時30分から新宿の紀伊国屋ホールでの作家・辺見庸さんの講演会へ。本屋さんでスラヴォイ・ジジェクの『絶望する勇気――グローバル資本主義・原理主義・ポピュリズム』を買う。年末年始の時間を使って読もう。
辺見さんのイベントは、新作小説『月』の刊行記念講演会。辺見庸の講演会を聴くのは久しぶりのことだ。前回もこの紀伊国屋ホールだった。会場は満席だった。辺見庸の激越な言葉を求めて、わざわざ肉声を聴きに来る人々がまだこれだけいる。風邪を引いているとのことで体調が悪そうだ。講演会後のサイン会は中止になった。始めるまでの間、ホール内には、バーバーの「弦楽のためのアダージョ」がずっと流れていた。
<今、世界が、この国が、すがれて(尽れて)いる。『月』を自分でもまだ対象化できていない。『月』という不穏な小説を書いたことによる「報い」のようなものを待っているような気持ちがある。行旅死亡人という存在の消え方にノスタルジーを感じる。善と悪の境目がなくなったことが気持ちの悪さの源泉だ。写真家ジャコメッリの『スカンノの少年』の時空間の不確かさこそが我々のリアルではないのか。死にゆく者の側からみた風景。人間は例外なく障害者だと思っている。健常と障害の2項対立ほど不毛なものはないと思っている。4K、8Kが前進だとは微塵も思っていない。中島敦の『セトナ皇子』という少作品。なぜあるのか。なくてもよいだろうに。「ある」ということは「ある」んじゃない、あってしまうのだ、「あられる」のだ。韓国の徴用工判決。日本のこの異様な反発は何なんだろう。そこにはやや軽侮な響きがある。我々は「与死」をどこかで肯定してしまっている……>
辺見庸は2時間40分にわたって、この国に蔓延している「気持ちの悪さ」について発言し続けた。NHKのカメラが2カメ入っていた。辺見さんと言葉を交わそうと、帰りを紀伊国屋書店前で待っていたら、やって来た。「よお、久しぶり」「智子さんも来てたんですよ」「そうかい」。何人かのファンが待っていて握手を求めていた。辺見さんは足早にタクシーに乗り込んで帰って行った。