【10】ナショナリズム 日本とは何か/日比谷焼き打ち事件と「国民」④
2019年06月20日
1969年の「あとがき」で、ロシア軍内部の混乱を指摘したうえで、司馬はこう書く。
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要するにロシアはみずからに負けたところが多く、日本はそのすぐれた計画性と敵軍のそのような事情のためにきわどい勝利をひろいつづけたというのが、日露戦争であろう。
戦後の日本は、この冷厳な相対関係を国民に教えようとせず、国民もそれを知ろうとはしなかった。むしろ勝利を絶対化し、日本軍の神秘的強さを信仰するようになり、その部分において民族的に痴呆化した。
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その前年の大正元年、桂太郎が政局の混乱の末に首相となる。山県有朋ら維新を担った元老が、天皇に推した人事だった。
桂は長州藩士から陸軍大将、首相という経歴においてことごとく山県の後輩だ。明治から大正にかけ首相を3度務め、最初の首相の時には日露戦争を主導。通算8年近い歴代最長の首相在任期間に、同郷の安倍晋三首相が迫っている。
その桂の3度目の首相就任に対し、民選議員からなる衆議院で、野党が「閥族打破・憲政擁護」を掲げ辞任を求めた。
だが、関川さんは当時の世相に違和感を覚えるという。
「要するに不満だ、国民が主人公だと。でもそれがなぜ護憲運動と言われたのかわからない。桂がどんな憲法違反をしたのかもね」
桂は天皇から首相に任命されており、天皇を統治者とする明治憲法に照らし手続きに問題はない。「国民」たちが問題にしたのは、憲法上の根拠がわからない元老らによる天皇への推薦が、相も変わらず行われたことだった。
この国を治める天皇が耳を傾けるべきは、元老ではなく「国民」ではないのか、ということだったのだろう。
確かに、国内政治における民主主義へのステップとしては、前進だったかもしれない。大正政変でやり玉にあがった桂や山県は、陸軍の重鎮でもあったからだ。それでも、日露戦争から大正デモクラシーへ至るこの時期、日本が対外的にどう動いたかを、われわれは忘れるべきではないだろう。
日本は、1910年の韓国併合で朝鮮半島を植民地化し、1915年には中国への二十一カ条要求で南満州などでの日本権益を強化する。これに反発し、1919年に朝鮮半島で3・1運動、中国では5・4運動が起き、反日ナショナリズムが広がっていく。
「3・1運動を通じて、他国を侵略し蹂躙(じゅうりん)する時代は終わったんだという訴えが、植民地とされた朝鮮半島から出てきた時、日本でそれに反応できたのは、
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