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小沢一郎と鳩山由紀夫、それぞれの「辺野古」

(10)小沢一郎、普天間移設問題のポイント・米軍再編の要点を捉えていた

佐藤章 ジャーナリスト 元朝日新聞記者 五月書房新社編集委員会委員長

消費増税を突然打ち上げた菅直人

 戦後初めて選挙による政権交代を成し遂げた民主党政権は、一体いつ終わったのだろうか。

 民主党3人目の首相、野田佳彦が衆院解散を明言して大惨敗を食らい、第2次安倍内閣が発足した2012年12月26日だろうか。年代記的にはそうだろう。

 しかし、野田政権は果たして、自民党に代わる新政権として国民が待ち望んだような政治を進めたのか。この設問には恐らく大方の人が首を傾げるだろう。

 それと同じことを考えるならば、民主党政権の初代首相、鳩山由紀夫が辞任した後、その同じ年、2010年9月14日に行われた同党代表選で小沢一郎が菅直人に敗れ去ったその日が、実質的な民主党政治の退場の日付だろうと私は考える。

民主党代表に再選された菅直人首相(左)と握手する小沢一郎氏=2010年9月14日、東京都港区

 菅は鳩山が辞任した後を受けて、2010年6月4日に代表選に立候補、対抗の樽床伸二を破って首相となったが、そのほぼ2週間後の17日の記者会見で、消費税率をその時の税率5%から10%に引き上げることを突然口にした。

 消費税増税のことは、民主党が政権を獲得した2009年のマニフェストには一言も書かれていなかったために非常な驚きをもって迎えられた。

 マニフェストには、「民主党の5つの約束」の最初の項目として「税金は、官僚と一部政治家のものではありません。国民の税金を、国民の手に取り戻します」と謳い、その下に大きい活字で「国の総予算207兆円を全面組み替え」と書かれていた。

 国の財政状況を考えればいずれ消費増税は日程に上って来るかもしれないが、その前に国の総予算を「全面組み替え」するくらいの荒療治を施すことが必要だ、と一般には思われていた。

 たしかに仙谷由人率いる行政刷新会議が行政仕分けを手がけ、予算改革に手をつけ始めたかにも見えたが、民主党議員の派手なパフォーマンスの割には予算圧縮の数字は上がらず、「全面組み替え」にはほど遠い状況だった。

 おまけに消費税増税を打ち出した翌6月18日には、菅内閣は「強い経済」を標榜する「新成長戦略」を閣議決定した。この「戦略」は明確に法人税減税を打ち出しており、自民党時代の税制戦略と何一つ変わるところがなかった。

 消費税増税と法人税減税は歴史的にセットで実施されており、大企業の減税は自民党時代と同様、消費者が面倒を見る構造は、そのまま温存された形となった。当然ながら、この「新成長戦略」の裏には経団連や経済産業省の存在があり、「国民の税金を、国民の手に取り戻します」と謳ったマニフェストに違反することははっきりしていた。

 菅直人が打ち出したこの消費税増税路線が翌7月の参院選での民主党惨敗につながるが、最終的には、マニフェスト違反を訴える小沢らが党を割る大きい要因となっていく。

「辺野古」を蒸し返した小沢一郎

 2010年9月14日の民主党代表選は、このような「経団連返り」の菅に対して、国民が政権選択をした初心を訴える小沢が挑戦する最後の機会だった。

 代表選は、東京・芝公園にあるザ・プリンスパークタワー東京で行われた。参院選で惨敗し過半数を割ったとはいえ、衆参411人の議員数はやはり圧倒的だった。議員の後ろに設けられた記者席からは菅、小沢の姿が小さく見えた。

 菅は、いわゆる「二世議員」が比較的少ない民主党の長所を挙げ、自身がその代表に当たる点を訴えたが、参院選直前に消費税増税を打ち出した残念な政治観を見せられた後ではかなり色褪せた文句に聞こえた。

 私は明確に記憶しているが、一方の小沢は朴訥な調子で米軍普天間飛行場の辺野古移設問題を取り上げた。首相だった鳩山が当初「国外、最低でも県外(移設)」と打ち出しながら結局は辺野古に持って来ざるをえないと結論を出した後だけに、一般的には「辺野古で決まりか」と思われていた。

 しかし、その空気の中で小沢は再度、辺野古問題を取り上げ、「まだ話し合いの余地はある」と訴えた。

 「日本政府は、まだ米国と本当には話し合っていない。だから、米国とはまだ話し合いの余地はある。沖縄県ともまだまだ十分に話し合っていかなければいけない」

 私は朴訥に訴え続ける小沢の声がいまだに耳に残っている。そして、短い言葉ながらも問題の本質を突いた本物の「政治の声」だと直感した。小沢に首相を任せれば、本当に普天間問題は解決の糸口が見えてくるかもしれない。そんな考えに支配された。

 代表選の結果は、議員票が僅差で菅の勝利、地方票が意外にも大差で菅勝利に終わった。私はこの代表選に合わせて、その時所属していた「AERA」に記事を執筆すべく、小沢と普天間・辺野古問題に焦点を絞って取材を進めていた。首相の菅はこの問題については実質的に匙を投げており、解決の道を探るには小沢が首相になるしかなかった。

那覇市内のアーケード街を練り歩く民主党の小沢一郎代表(右)、鳩山由紀夫幹事長(中央)、菅直人代表代行(左)=2007年4月15日

「沖縄の米海兵隊は日本防衛の任務を担ってはいない」

 代表選のほぼ1週間前の9月8日、東京・永田町の衆院第2議員会館の大会議室で小沢の記者会見が開かれた。

 「海兵隊をはじめ実戦部隊を前線にはりつけておく必要はない、ということが米軍再編の戦略です。最終的には日米合意になったが、話し合いの余地はある。沖縄の県民のみなさんが理解しないとできない。強制執行などできないわけです」

 会見で述べたこの言葉が、小沢の考えを要約している。

 私はまず、元外務官僚で普天間・辺野古問題に詳しい佐藤優に話を聞きに行った。佐藤は、外交・民族問題、宗教問題などに該博な知識を持っているが、母親が沖縄県久米島出身のためもあって、沖縄問題については実に的確かつ深い指摘をしていた。

 「小沢さんは正しいですよ。結論から言えば、県外移設は可能です」

 佐藤は私を事務所に迎え入れるなり単刀直入にこう断言した。

 佐藤によると、米軍の実態を知る外務官僚たちの本音は「県外移設は可能」ということだった。佐藤がまず指摘したのは、沖縄にいる米海兵隊は米国本土や中東、東南アジア、オーストラリアを次々に移転するローテーション部隊だという事実だった。

 今年3月31日付の朝日新聞は1面トップで、沖縄に駐留する米海兵隊の中核を担う「第31海兵遠征部隊」(31MEU)の実態を報道した。部隊の動向を記録したコマンドクロノロジー(部隊年報)の情報公開を米海兵隊に求めていたが、1992年の配備から2017年までの年報や関連資料など約3600ページが開示された。

 それによると、ほとんどの年で100日以上沖縄を離れて日本国外に出ていた。2009年の年報を見ると、1月沖縄、2月タイ、沖縄、4~5月フィリピン、沖縄、7月オーストラリア、沖縄、10月フィリピン・インドネシア、11月沖縄、というローテーションで、この年は少なくとも約160日海外で訓練などをしていた。しかも歩兵を中心に半年ごとに交代するため、主に米国本土から隊員が来るたびに訓練を繰り返している。

 つまり、沖縄駐留の米海兵隊は必ずしも日本防衛の任務を担ってはいない。佐藤とは別だが、米軍の任務に詳しい自衛隊関係者はこう解説した。

 「これを言うとみんなびっくりするんだけれども、海兵隊のミッションは2つなんです。日本に限らないが、まずひとつは、その国におけるアメリカの要人の保護救出。これはファースト・プライオリティ。そのリストの一番目は駐日アメリカ大使です。だけど、これはたびたび問題になるんだけど、その大使の配偶者というのは番号が低いらしい」

 これはむしろ想定内で、それほど「びっくり」するような話ではないが、本当に驚くのは二つ目の任務だろう。

 「そして、第2のミッションというのは、当地におけるアメリカ政府に対する敵対的政権が誕生した時、その政権を力によって排除する部隊が海兵隊なんです。以上です。はっきり言って他のミッションはないです。オスプレイの飛行ルートを記録しているジャーナリストがいるかどうかわからないが、オスプレイは市街地上空を飛んでいる。なぜか。まさしく飛行訓練です。何かあった時に日本を再占領するための訓練なんです」

 にわかには信じがたい任務ではあるが、米軍と日米地位協定の問題が集約された沖縄の歴史と現状を見ると、その話は異様な現実感を持って迫ってくる。

「演習の標的」にされる日本

高台に設えられた「貴賓席」から演習を見守る米軍将校たち。演習にはベトナム人役として乳幼児などを連れた女性を含む約20人が徴用された。写真左側から海兵隊が一列になって近づいて来るのが見える。最終的にベトコン役の二人が捉えられて演習は終わった。1964年8月26日、東村・高江(写真・沖縄県公文書館)

 上の写真をご覧いただきたい。

 1964年8月26日、現在オスプレイのヘリパッド建設予定地として激しい反対運動の起こっている沖縄・東村高江の写真だ。

 ベトナムで激戦が続いている時代で、高江の住民たちはベトナム人やベトコン役をさせられて、海兵隊の襲撃を受ける役割を演じさせられた。仮に作られた「ベトナム村」を見下ろしているのは、当時のワトソン高等弁務官をはじめとする米軍の将校たちだ。

 オスプレイの複数のヘリパッドは高江の集落を囲む形になっており、この「ベトナム村」の歴史的記憶が住民に甦っている。

 日米地位協定問題を追及してきた沖縄国際大学大学院教授の前泊博盛はその著書『本当は憲法より大切な「日米地位協定入門」』(創元社)で、数々の事例を挙げながら、沖縄だけでなく日本全体が米軍の演習の標的になっている、と指摘している。

 例えば1958年9月7日には、ロングプリー事件という出来事があった。西武池袋線に乗っていた当時の武蔵野音大生(21)が米軍基地内のロングプリー三等航空兵(19)にカービン銃で狙撃され死亡した。ロングプリーは「カラ撃ちの練習をしたところ実弾が入っているのを忘れて射ってしまった」と供述、形だけの裁判の上、禁錮10か月という極めて軽い刑で終わった。

 もうひとつ、1957年8月3日、茨城県内で自転車に乗っていた女性(63)が超低空飛行で近づいてきた米軍機の後方車輪にひっかけられ、「首と胴体を真っ二つに切断されて即死」したという事件。地元市議会は、米軍機の低空飛行が通行人をしばしば驚かせていたことなどから操縦士の故意のいたずらと断定したが、これは日米地位協定に基づいて日本側の裁判権が放棄されて捜査終了となった。

 前泊の挙げる実例はまだまだあるが、米海兵隊の任務は必ずしも日本防衛にあるのではなく、米軍全体の日本を見る目も、前泊の指摘するように「演習の標的」という面が多分にあるということだ。

「米国の軍人は辺野古を望んでも、米国の政治家には大したことではない」

 小沢の話に戻ろう。

 「米国とはまだ話し合いの余地はある」という小沢の言葉を受けて、私は佐藤優の次に、当時立教大学教授だった李鍾元(現早稲田大学大学院アジア太平洋研究科教授)に話を聞きに行った。米国内政治を視野に入れた東アジアの安全保障体制を研究する李は、菅や鳩山とは食事などをともにする仲だったが、小沢とは会ったことがなかった。しかし、小沢の著作などを読み、その考え方を高く評価していた。

 「小沢さんは、大枠の戦略的思考のできる人で、国際政治のパワーポリティクスを理解している人だと思います」

 米国の軍事力は、第2次世界大戦以降、太平洋を東へ展開し、冷戦から熱戦に転化しがちなアジア大陸近くに前方展開していった。しかし、20世紀後半から軍の輸送能力が格段に高まったため、必ずしも前方展開しておく必要がなくなってきた。

 かつては大陸近くの海を米空母が遊弋していたが、現在は航空機で軽戦車や数千人単位の旅団を輸送できるようになった。このため、有事の際には米本土とグアムの基地から出撃すれば十分間に合う。

 米国の有力な防衛問題ジャーナリスト、「影のCIA」とも呼ばれるロバート・カプランは、「フォーリン・アフェアーズ・リポート」の2010年6月号で、中国の海軍力増強に対抗する米海軍力の拠点として、アジア大陸近くではなく、オセアニア地域を挙げている。

 李は、米国内のこうした有力な議論や、前方展開から後方へ退きつつある米軍再編の大きい動きを見据えながら、日米間の戦略協議が必要だと説明した。

 「米国や日本が、軍や官僚主導ではなく、経済の分野も考慮に入れた政治主導の戦略協議を始め、アジアの望ましい政治、軍事、外交秩序を構築する。その中で沖縄問題の位置づけをしなければ、沖縄の基地の問題は出口が見えないのです」

 しかし、李が言及したような本格的な日米協議は鳩山政権や菅政権では一度も開かれていなかった。

 「小沢さんは、体系的に肉付けして話していないのでわかりづらいが、考えていることは、日米の大枠を変えることで基地問題の出口を見つける、ということだと思う。正しい考え方です。小沢さんは、こういう構造を見ながら、まだ完全には決着したわけではない、政治主導の議論はまだ交わされていないとみているわけです」

 このような日米協議においては、かつて日本の建設市場開放問題をめぐる日米交渉や、日米電気通信交渉で日本側代表となった小沢の経験と知識が非常に重要な鍵を握っている。米国内の情勢にも目を光らせている李は、こうも指摘していた。

 李は小沢と話し合ったわけではないが、小沢が考えていることを実に正確に解説してくれた。

 しかし、とは言っても現実には小沢は代表選に敗れ、その高い見識と経験を生かすことなく、菅、野田、安倍の各政権を経て辺野古の海には大量の土砂が投入され、国の天然記念物で絶滅危惧種のジュゴンは死んでいった。

 この件で小沢に改めて話を聞いてみると、李の解説がいかに正確だったかがよくわかった。

 「アメリカは本当は辺野古にこだわっていない。今だってそう思いますよ。アメリカの基本的な世界戦略、軍事戦略を考えれば当然、辺野古にあのようなものは要らない。たしかに海兵隊は欲しがります。しかし、軍人は欲しがるかもしれないが、政治的に言ったら大したことではない。むしろ、沖縄で摩擦や紛争が起きれば政治的にマイナスになるだけだ。そんなことは政治家ならすぐにわかることです。しかも、海兵隊は事実上沖縄にいない。ほんの少ししか沖縄にいないんです。それで、土地は他にもある。あんな綺麗なところは埋め立てる必要はないんです」

 普天間・辺野古問題に関する小沢の知識は実に正確であり、小沢が首相になっていた場合には、もう一つ別の歴史の歩み方を目にしていただろうと思う時、実に無念の気分に陥る。

鳩山が明かす「小沢との溝」

 しかし、党内にこれだけの眼力と勢力のある味方が存在しながら、辺野古問題で追い詰められていった鳩山は、なぜ援軍なり後方支援なりを小沢に頼まなかったのだろうか。

 「もっと私の方から積極的に助けを求めて、小沢さんどう考えておられるのですかという話をすればよかったのでしょう。しかし、そのチャンスがなかったですね、あの時。本当に任せていいんだなと小沢さんがおっしゃっていたことはあったので、その時にこちらも、いや大変苦しんでいるので力を貸してくださいと申し上げていれば、そこで変わっていた可能性はあります。アメリカの考え方はもっと柔軟であるということは小沢さんはわかっておられたと思うのですよ。そこで突破口を開いて穴を開けることが小沢さんならできたかもしれません」

 この問題に関しては、鳩山の口から後悔の言葉がほとばしり出た。

 「今から思えば、1週間に二度でも三度でも相談をさせていただいて、小沢さんはどうお考えになっているかというようなことを伺う機会をもっと頻繁に作っておけばよかったと思っています。今から思えば失敗でした。小沢さんも私以上に割と訥々としておられて、二人の時にもそんなにべらべらお話しをされる方ではないので、本当に普天間のことは政府の方に任せているからそれでいいんだなと言われると、任せておいてくださいと私も答えてしまうわけです。いや、助けてくださいという話をすれば、もっと胸襟を開いていろいろとお話しができたと思うのです。しかし、政務、政策はこちらからは口を出さないからそれでいいんだな、とおっしゃられると、こちらもその通りです、私どもが責任を持ってやりますというふうになってしまった。多分、お互いにそれで満足していないのだろうと思いながら、溝が出来てしまったような気がしました」

 鳩山の回想は実にいろいろなことを語っているが、鳩山が記憶する「政務、政策はこちらからは口を出さないからそれでいいんだな」という小沢の言葉は何を意味しているのだろうか。実は、この言葉の裏に鳩山と小沢の間にできた「溝」の発端がある。

 2009年9月16日の鳩山内閣発足前、小沢は鳩山と党本部の代表室で向かい合っていた。この会談で鳩山は小沢に党幹事長への就任を依頼し、党務全般を任せることを伝えた。しかし、その際に、政策のことは内閣に任せてほしいと釘を刺した。

 このことが小沢に響いたようだ。小沢は、これまでの「小沢一郎戦記」(『小沢一郎「実は財源はいくらでもあるんだ」』『国家戦略局が沈み、小沢一郎幹事長が浮かんだ』『小沢一郎が構想した予算編成』)で見てきたように実に政策に精通し、民主党が初めて取り組んだ2010年度予算案編成では、日本史上初めてと言っていいような政治主導の予算案を作り上げた。曲がりなりにも進んできた政治改革も、小沢が『日本改造計画』で素描してきた跡をほぼたどっていると言っていい。小沢は幹事長職にありながらも入閣して、「与党と内閣の一体化」(『日本改造計画』)の一翼を担うものと考えていた。

 菅代表の時の2003年民主党マニフェストには、脱官僚、国益追求の政府を作るために政府と与党の一体化を目指して党幹事長も入閣することが明確に記されている。小沢は、このマニフェスト通りのことを考えていたが、なぜかここで翼を折られてしまった。小沢がなかばかたくなに「政務、政策はこちらからは口を出さないからそれでいいんだな」と繰り返したのは、ここにその理由がある。

 「私は、幹事長を小沢さんと決めた時、あの時期に小沢さんに入閣してもらった場合、集中攻撃を受けるのではないか、と恐れました」

 小沢の入閣を回避した理由について、鳩山はこう答えた。

 「もちろん小沢さんは無罪でしたが、当時はメディアを含めて小沢さんに対する攻撃は本当にひどかった。私に対してもひどかった。私の方は受けざるをえなかったのはわかっていましたけれども」

 鳩山の場合、母親からの資金提供やすでに亡くなっているはずの故人名義からの献金の問題が発覚していた。これらに加えて前回の『小沢一郎の改革を妨げた検察の根拠なき捜査』で報告したような小沢冤罪の「陸山会事件」が加わった場合、「内閣が持たないのではないか」と鳩山は恐れた。これが小沢入閣回避の理由だと鳩山は説明している。

民主党両院議員総会で辞任のあいさつを終え、小沢一郎幹事長(左)と握手を交わす鳩山由紀夫首相=2010年6月2日、国会内

鳩山、往時を悔やむ

 小沢が無任所大臣として入閣していれば、普天間・辺野古問題は現在とはまったく違う展望の下に新たな光が差していた可能性が多分にある。小沢の識見と経験、そしてどんな相手にも正しいと信じる主張を貫く胆力。恐らくは当時のヒラリー・クリントン国務長官やオバマ大統領を動かして、いまごろ辺野古の海はそのまま美しい日々を過ごしていただろう。

 前回『小沢一郎の改革を妨げた検察の根拠なき捜査』で指摘したが、当時の東京地検特捜部が国民生活に犯した罪は限りなく重い。

 鳩山は、本来得るべき最大の援軍を失ったまま孤立を深めていった。

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