山口 昌子(やまぐち しょうこ) 在仏ジャーナリスト
元新聞社パリ支局長。1994年度のボーン上田記念国際記者賞受賞。著書に『大統領府から読むフランス300年史』『パリの福澤諭吉』『ココ・シャネルの真実』『ドゴールのいるフランス』『フランス人の不思議な頭の中』『原発大国フランスからの警告』『フランス流テロとの戦い方』など。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
援助とは困っている人の傍らに行って助けること。札束で顔を引っ叩くことではない
私の取材に、緒方さんはその前年の4月、9月とクリスマス直前の3回、コソボに行ったおりに、自分の目で見た難民の実態を詳細に語ってくれた。
「湾岸戦争で170万、ルワンダで150万、ボスニアでも最終的に400万、旧ソ連のアフガン侵攻では500万と多数の難民が発生したが、コソボの場合は、アルバニアやマケドニアに流出した難民の証言から、難民を列車に乗せて追放するなどの『過酷な手段』が痛ましい」と、難民の置かれた状態の特異性も指摘した。
「アフガン難民も当初は冷戦が原因だったが、今や部族や宗教の問題。米国も当初は冷戦構造から援助。ソ連の撤退後は関心なし」と、米国の態度にも不満を述べた。「今週はボスニアとクロアチアに行く。デートン合意後の難民の帰還状況を年2回現場で調査しているところ。正義などを正面に出さずに、犠牲者の側に立って仕事をする配慮が必要」とも。
北大西洋条約機構(NATO)、つまり米軍主力によるコソボの空爆に関しても、「空爆開始前は週6回、40万人対象の人道輸送隊を組み、ユーゴ地方行政官や現地非政府機関、マザー・テレサ協会と協力して食糧や医療などの支援を実施したが、空爆開始と同時に国連の避難指令で引き揚げた」と、現場の状況にほとんど無知な米国主体の空爆に対して疑問を呈した。
さらに、「ボスニア紛争時には、食糧などの『エア・ドロップ(空中投下)』作戦が実施された。落下傘に大型段ボール箱をつけたり、片手で受け取るほど軽い『人道弁当』を投下したりしたが、これらの作戦は地上との密接な連絡が必要だ。コソボはボスニアより地形が峻嶮(しゅんげん)なので軍人が反対したので、同作戦も当初は実施できなかった」と残念がった。
その一方、NATOについて「先週末から何でも協力するとの申し出があった。コソボの航空写真も先週から提供してくれた。読み方が難しいので職員が教わっている」とも語った。当時、冷戦に勝利し、泣く子も黙ると言われた世界最強のNATO軍が、緒方さんの熱心な難民救助の前にはひれ伏したようで、なんとも痛快だったのを覚えている。
緒方さんには、おのずと人を敬服させる人間としての「気品」があった。
ジュネーブのUNHCR本部での会見の時、空港から乗ったタクシーの運転手が「アンタ、日本人?」ときくので「そうよ」と答えると、「自分はマダム・オガタを乗せたことがある!」」と実に誇らしげに言う。テニス・コートの脇を通った時は、「自分はマダム・オガタがテニスをしているの見たことがある !」とこれまた、「どうだ!すごいだろう !!、参ったか?!」といった調子だった。
ああ、緒方さんは、地元でも、すごく尊敬、敬愛されているんだなと、同胞として誇らしく思った。
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