メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

news letter
RSS

無料

「偉くならない」教皇フランシスコの来日

高いところから教えを説くのではなく、低いところへ低いところへと自ら身を置く原点

中島岳志 東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授

「所有」の概念を疑う

中島 教皇とアッシジのフランシスコに共通する感覚の重要なポイントは、「私的所有」という概念に対するアンチテーゼだと思います。近代社会は、その概念を前提として発展してきたわけですが、そもそも万物を「所有する」ということは許されるのか。アッシジのフランシスコはそこを疑ったからこそ、富を捨て、豪華な住まいを捨てて清貧の生活を送りましたが、教皇も同じような感覚を抱いているのではないかと思います。

若松 空、空気、水などに象徴される自然は、私たちが「所有できないもの」です。むしろ、さまざまな文化は、自然を「分かち合う」なかで生まれてきた。しかし、近代は、いつの間にか自然を「所有」し、さらには独占できるようにさえした。ここに教皇は強く警鐘をならすのです。「神」のものを、あたかも自分のものであるかのように振る舞う人間たちの愚かさを指摘するのです。

中島 『ラウダート・シ』の中では、水道の民営化についても非常に厳しいことを書かれていますね。

 水道民営化はよく、「貧しい人たちが水を手に入れられなくなるからよくない」という話に還元されがちです。それは間違いではないけれど、教皇が言っているのは、それを超えた「いのち」の問題、あるいはアッシジのフランシスコの「被造物の讃歌」のような問題。水というものを特定資本が所有して、売買の対象とするということ自体に対する根源的な問いなのだと思います。

山本 水の問題に関してはしばしば、教皇は「共通善」という言葉を使われますよね。これは私の専門である中世スコラ学に由来する言葉で、「私的善」の対立概念です。私有することのできない人類共通の善という次元を確保しようとする理論なのですが、それが教皇によって新たな文脈の中で生かし直されていると感じます。

いのちは所有できない、代替できないもの

若松 「所有」の問題を考えるときには、身体の次元、心の次元ではなく、「いのち」の次元で考えるということが重要だと思います。

 たとえば、臓器売買は許されるのか。臓器は「私」のものなのか。教皇の考えからすると、もちろんそれはノーです。なぜなら、臓器は「いのち」とつながっているものであって、自由に売買できるものではない。あなたのものではなく、あなたに「預けられた」ものだからです。

 あるいは土地、大地も、根本的な意味において、大いなる「いのち」とつながっている。それを区切って売買するというのが、そもそもとても不自然なのではないかというのが、教皇の問いかけなのだと思います。

 原発の問題も、この感覚と非常につながっています。原発事故が起こって放射能が飛散することで、土地が使い物にならなくなってしまう。それは言い換えれば、土地が、放射能事故によって略奪され、形を変えた「所有」が始まるということです。つまり、それまで人々に平等に分け与えられていた土地が、よく分からない力によって所有され、奪われてしまう。だから原発は、あってはならないのです。

中島 福島第一原発事故の後、福島で農家の方が自殺するということがありました。ずっと耕してきた土地に放射能が降り注いで、もはや前のように作物を育てて生きてはいけないかもしれない。そのとき農家の方が抱いたのは、大地が汚染されたと同時に、自分のいのちもまた汚染されたという感覚だったのではないか。土地を耕すことが自分の生命の鼓動そのものでもあった、その営みが寸断されてしまったことに対する絶望だったと思うのです。

 だから、一部でいうように「かわりに別の土地を確保すればいい」という問題ではない。所有物としての土地を失ったというだけの絶望ではないからです。アッシジのフランシスコが「被造物」として大地をも讃える、その感覚がそこにあるのだと思います。

 もう一つ、教皇フランシスコが死刑に対して非常に強く反対していることも重要だと思います。これもやはり「いのち」の問題だと思うのです。他者の命を「合法的に」絶つことができる、つまりは人の命を所有することができるという観念自体に対する、強烈な懐疑。死刑は冤罪があるから駄目だといった法的な問題の前に、「いのちの所有」自体が許されない概念だという思いがあるのではないでしょうか。

拡大中島岳志・東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授

山本 日本では、キリスト教はもともと死刑には反対だろうと考えている人も多いと思うのですが、実は伝統的には、ほとんどの神学者が死刑の存在を認めています。私が長らく研究してきたトマス・アクィナス(1225頃-1274)は、現代に至るまで、最も優れたカトリックの神学者とされていますが、彼もはっきりと死刑を肯定しています。そのことを背景に置くと、教皇がやろうとしていることのラディカルさが見えてきますね。彼は「カテキズム」という、現代のカトリックの教えを網羅した書物においても、死刑についての記述を書き換えたのですが、非常に思い切った行動です。

若松 私たちがそもそも「いのち」を裁けるのか、という問いかけですね。所有と裁きというのは、とても近しい関係にあると思います。

 死刑の問題をめぐって、世田谷区長をつとめる保坂展人さんと話をしたことがあります(参照『保坂展人×若松英輔「いのちの政治学」』)。保坂さんはキリスト者ではありませんが、教皇フランシスコの世界観と著しく共振することをすでに実践しています。いじめや自殺をめぐって「いのち」のあり方を考え、原発に象徴される暴力的な科学技術のあり方に警鐘をならし、持続可能な社会を環境、教育、福祉の分野においても試みています。何よりも世田谷を誰も「見捨てない」街にしようとしていることに強く打たれるのです。今回の来日で、保坂さんと教皇の面会が実現しないのは本当に残念です。彼は教皇と「考え」を同じくするだけではありません。それをすでに実践しているのですから。

 保坂さんは、現存する国会議員経験者のなかで、おそらく唯一、死刑囚と面会したことのある人物です。この事実にまず、大きく驚かされました。彼は国会議員として、超党派の仲間たちとともに死刑の廃止に向け真摯に活動をしました。しかし、そのことがなかなか実現しない。大きな犯罪をおかした人間の「いのち」を問題にしても共感する人は少ない、というのです。

 「いのち」の次元で世界のありようを考える、「いのち」の尊厳とは何かを私たちは、もっと深めていかなくてはならないと思うのです。

 このことで思いだされるのは『苦海浄土 わが水俣病』を書いた石牟礼道子さんです。存命だったら彼女も、ぜひ、教皇と言葉を交わしてもらいたかった一人です。彼女の本によって私たちが知った水俣病事件とは、公害という社会的現象ではなく、「いのち」とは何か、「いのち」の尊厳とは何か、という問題を突きつけているのだと思います。「いのち」をお金で買うことはできません。

中島 2011年に浄土真宗大谷派が親鸞聖人の七百五十回御遠忌(法要)を開いたとき、そのテーマとして掲げられたのが「今、いのちがあなたを生きている」でした。実は門徒の間では「何を言っているか分からない」と評判が悪かったそうなのですが(笑)、私はとてもいい言葉だと思いました。

 「いのちが」あなたを生きているのであって、「私が」いのちを生きているのではない。いのちはどこかからやってきて、私という「器」でとどまっているものであり、いのち自体を所有することはできないという感覚を説いているのだと思うのですが、教皇の感覚はこれとも非常に近いと思います。

若松 「いのち」とは、他の何ものによっても代替することができない何ものかです。「いのち」は量的に認識されることを拒む。常に、ただ一つの、質的存在です。そのいのちとつながっている大地、空、森、そして水……世の中には絶対に代替できないものに満ちあふれている。この事実を、私たちが思い出せるかどうかが問われている。

 今回の来日でも、教皇はさまざまな「いのち」に関するメッセージを発すると思うのですが、それを身体や心の話に置き換えず、そのままの形で受け取ることがとても大事だと思います。

全ジャンルパックなら本の記事が読み放題。


筆者

中島岳志

中島岳志(なかじま・たけし) 東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授

1975年、大阪生まれ。大阪外国語大学でヒンディー語を専攻。京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科でインド政治を研究し、2002年に『ヒンドゥー・ナショナリズム』(中公新書ラクレ)を出版。また、近代における日本とアジアの関わりを研究し、2005年『中村屋のボース』(白水社)を出版。大仏次郎論壇賞、アジア太平洋賞大賞を受賞する。学術博士(地域研究)。著書に『ナショナリズムと宗教』(春風社)、『パール判事』(白水社)、『秋葉原事件』(朝日新聞出版)、『「リベラル保守」宣言』(新潮社)、『血盟団事件』(文藝春秋)、『岩波茂雄』(岩波書店)、『アジア主義』(潮出版)、『下中彌三郎』(平凡社)、『親鸞と日本主義』(新潮選書)、『保守と立憲』(スタンドブックス)、『超国家主義』(筑摩書房)などがある。北海道大学大学院法学研究科准教授を経て、現在、東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

中島岳志の記事

もっと見る