山本章子(やまもと・あきこ) 琉球大学准教授
1979年北海道生まれ。一橋大学大学院社会学研究科博士課程修了。博士(社会学)。2020年4月から現職。著書に『米国と日米安保条約改定ー沖縄・基地・同盟』(吉田書店、2017年)、『米国アウトサイダー大統領ー世界を揺さぶる「異端」の政治家たち』(朝日選書、2017年)、『日米地位協定ー在日米軍と「同盟」の70年』(中公新書、2019年)など。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
今春、展示を改装したひめゆり平和祈念資料館が志向するものは……
私たちは忘れてしまったのだろうか あなたたちのことを――
1968年に公開された映画『あゝひめゆりの塔』の予告映像は、このような字幕で始まる。主演の吉永小百合が演じているのは、1945年の沖縄戦で半数以上が死亡した、ひめゆり学徒隊の女子生徒の一人だ。
ひめゆり学徒隊とは、日本軍の病院での看護活動のため動員された、沖縄師範学校女子部(女師)と沖縄県立第一高等女学校(一高女)の15~19歳の生徒と引率教師、240人の愛称で、136人が戦場で亡くなった(動員されなかった生徒・教師も91人が沖縄戦で死亡)。映画のタイトルである「ひめゆりの塔」は彼らの慰霊碑だが、女子生徒たちが通った那覇市安里の校舎跡地ではなく、ひめゆり学徒隊のうち約2割が米軍の攻撃で死亡した、糸満市伊原の「伊原第三外科壕」の前に建てられている。
戦後23年たった1968年にはすでに戦争の記憶の風化がいわれていたことを、『あゝひめゆりの塔』の宣伝は示唆している。その後、世代交代が進むにつれ戦争の記憶の共有はますます難しくなっていく。2019年には戦後生まれの人口が全体の84.5%を占めている。今や、ひめゆりを「忘れてしまった」のではなく、「知らない」世代が過半数を占める。
戦争を知らない人に歴史を引き継げるものだろうか。どのようにすれば可能になるのだろうか。今年もやってくる「慰霊の日」(6月23日)を前に沖縄の地で考えたい。
ひめゆり学徒隊を題材とする映画は、1953年から1995年までに4本製作されている。最もヒットしたのは、1953年1月9日に封切られた最初の『ひめゆりの塔』だ。
当時は、アジア太平洋戦争の敗戦から約7年半。サンフランシスコ講和条約が発効し、米軍の占領の続く沖縄を切り離して日本の本土が独立を回復してから約8カ月という時期だった。ほとんどが戦争体験者だった日本人にとって、『ひめゆりの塔』は自身の物語として強く共感される。
動員数は600万人、邦画・洋画で過去最高の配収となる1億8000万円という驚異の興行成績は、朝鮮戦争が続くなか、憲法9条に反して警察予備隊が発足、保安隊に改編されて約3カ月後の映画公開というタイミングも関係していた。
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