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プーチンのねらいを考える:NATOの東方拡大阻止の意味

塩原俊彦 高知大学准教授

ロシアとNATOの関係:我慢の限界

 NATOの東方拡大に対して、ロシア側が我慢の限界に達しているという面も知っておく必要がある。1990年、当時のジョージ・H・W・ブッシュ大統領がミハイル・ゴルバチョフ大統領に「口約束」したとされる、ドイツが統一されたとき、NATOの軍事インフラは西独から東独の領域には拡大しないという合意がある。これは、ドイツだけにしか適用されない話だった。残りの「社会主義陣営」は、まだ解散していないワルシャワ条約機構メンバーであったから、これらの国のNATO加盟など、話されたわけではない。

 その後、旧ユーゴスラビアを構成したボスニア・ヘルツェゴビナ共和国の独立をめぐって、1992年4月、民族間で紛争が勃発、1995年12月のデイトン和平合意の成立まで戦闘がつづいた。この間、1994年2月、NATO軍機がセルビア軍機を撃墜させる事件が起き、同年4月以降、NATOは小規模な空爆を開始する。1995年8月からは大規模空爆に踏み切る。

 注目すべきは、1993年8月、ボリス・エリツィン大統領がポーランド、チェコを訪問した際、中欧のNATO加盟容認する発言を行ったことである。しかし、帰国後ロシア国内で軍部・保守派が一斉反発し、発言は取り消された。1994年1月には、NATOが旧東側諸国との間で個別に結ぶ協力協定である、「平和のための協力協定」がNATO首脳会議で決定される。加盟を望む中・東欧諸国とそれに強硬に反対するロシアの双方に配慮してとられた措置だが、こうしてエリツィンは西側に取り込まれてゆく。1994年7月にナポリで開催された主要国首脳会議にエリツィンは初めて正式メンバーとして参加し、ボスニア・ヘルツェゴビナ問題などを協議した。こんな牧歌的とも言える状況があったのだ。

 1999年3月、チェコ、ハンガリー、ポーランドのNATO加盟が承認された。それにもかかわらず、2000年5月に大統領に就任したプーチンはNATO拡大を事実上、受け入れた。それだけでなく、2002年にローマ近郊で開かれたNATO首脳会議にプーチンが参加したことで、NATO・ロシア理事会の設立が調印されるまでになる。常設の対話機構と代表部が開設されることになった。

 2007年には、プーチンはミュンヘンでの国際会議で、米国がポーランドやチェコにミサイル防衛システムの配備を計画していることについて批判し、NATO拡大に反対する姿勢を明確に示す。それでも、プーチンに代わって大統領に就任したドミトリー・メドベージェフは2010年のリスボン・サミットに参加する。問題の「リセット」が提示されたのだが、「アラブの春」への対応やプーチンの再登場で、事態は悪化に向かう。

 2014年のクリミア併合とドンバス紛争の結果、ロシアとNATOの蜜月は終了する。そして、2021年10月、セルゲイ・ラブロフ外相は、ロシアがNATOの常設代表部の業務を停止していることを明らかにした。これは、NATOがスパイ容疑でロシア側の外交官8人を追放し、外交官枠を20人から10人に半減するという決定へのモスクワの反応であった。同時に、ロシアはモスクワのNATO軍事連絡団を停止し、2022年11月1日付でその職員の認定を取り消し、ベルギー大使館のもとに設置されていたロシアのNATO情報局を終了させたのである。プーチンからすれば、もう我慢の限界を通り過ぎてしまったということか。

「安全保障体制の選択の自由」の制限は可能か

 戦略家のプーチンがNATO加盟国に問いかけているのは、「安全保障体制の選択の自由」という問題だ。東西冷戦下の1975年ヘルシンキでの首脳会合で設置が決まった欧州安全保障協力機構(OSCE)の1999年のイスタンブール首脳会議で署名された「欧州安全保障憲章」にある、いわゆる「安全保障の不可分性」が守られていない現実を問題視したのである。

OSCEの加盟国拡大OSCEの加盟国=shutterstock.com

 同憲章には、つぎのような記述がある。

 「各参加国は、安全保障に対する平等な権利を有する。我々は、同盟条約を含む安全保障上の取り決めを、その進展に応じて自由に選択し、または変更することができるという、各参加国の固有の権利を再確認する。各国はまた、中立の権利を有する。各参加国は、これらの点に関し、他のすべての国の権利を尊重する。また、他国の安全保障を犠牲にして自国の安全保障を強化することはない。OSCEにおいては、いかなる国、国家群または組織も、OSCE域内の平和と安定の維持に卓越した責任を負わず、OSCE域内のいかなる部分も自らの影響圏と見なすことはできない。」

 つまり、OSCEに加盟しているウクライナは、同じくOSCEに加盟しているロシアの安全保障を犠牲にして、NATOに加盟することで自国の安全保障を強化してはならないと解釈可能というわけだ。

 2010年12月にカザフスタンの首都アスタナ(当時の名称)で開催されたOSCE首脳会議では、「安全保障共同体に向けたアスタナ記念宣言」のなかで、同じ内容が再確認されている。それだけではない。OSCEの1994年の「政治的・軍事的側面に関する安全保障行動規範」には、つぎのように記されている(注)。
 (注)正確には、この時点の名称は「欧州安全保障協力会議」(Conference on Securi ty and Co-operation in Europe, CSCE)で、このCSCE は1995年1月から「欧州安全保障協力機構」(Organization for Security and Co-operation in Europe, OSCE)と名称を変更し、現在に至っている。

 「安全保障は不可分であり、各自の安全保障は他のすべての者の安全保障と不可分に結びついていることを確信しつづける。彼らは、他の国の安全保障を犠牲にして自国の安全保障を強化することはない。彼らは、OSCE地域及びそれを越える地域における安全及び安定を強化するための共通の努力に適合するよう、自国の安全保障上の利益を追求するものである。」

 実は、この記述から「安全保障の不可分性」という概念が注目され、他国を犠牲にして自国の安全を強化しないという大原則が生まれたはずだった。しかし、それが蔑(ないがし)ろにされつづけているというのである。

 だからこそ、プーチンは前述した記者会見で、つぎのように話している。

 「なぜ私たちは、イスタンブールやアスタナで、いかなる国も他者の安全を犠牲にして自国の安全を確保しることはできないと書かれた条約や関連する協定に署名したのでしょうか。ここでは、ウクライナのNATO加盟は私たちの安全保障を損なうものであり、このことに注意を払うように求めているのです。」

 冷静にみて、そういう経緯があるのならば、プーチンの言い分にも一理あると思うのが普通の人の感覚ではなかろうか。

問題化する「選択の自由」

 簡単に言えば、いわゆる西側諸国は「安全保障の不可分性」を軽んじて、選択の自由を重視してきた。ウクライナがNATOに加盟しようと、それはウクライナの選択の自由であり、ロシアとは無関係と言いたいのだ。しかし、それは前記の「約束」に反している。もちろん、ソ連やロシアもまた、不可分性を軽視してきた過去があるかもしれない。そうであっても、不可分性の重視について世界各国はもっと真摯(しんし)に向き合わなければならないだろう。

 他方で、こうした「選択の自由」を重視する姿勢はすでにNATO内部に亀裂を生じさせている。

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筆者

塩原俊彦

塩原俊彦(しおばら・としひこ) 高知大学准教授

1956年生まれ。一橋大学大学院経済学研究科修士課程修了。学術博士(北海道大学)。元朝日新聞モスクワ特派員。著書に、『ロシアの軍需産業』(岩波書店)、『「軍事大国」ロシアの虚実』(同)、『パイプラインの政治経済学』(法政大学出版局)、『ウクライナ・ゲート』(社会評論社)、『ウクライナ2.0』(同)、『官僚の世界史』(同)、『探求・インターネット社会』(丸善)、『ビジネス・エシックス』(講談社)、『民意と政治の断絶はなぜ起きた』(ポプラ社)、『なぜ官僚は腐敗するのか』(潮出版社)、The Anti-Corruption Polices(Maruzen Planet)など多数。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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