一木 隆範(イチキ・タカノリ) (公財)川崎市産業振興財団 iCONM主幹研究員、東京大学教授
東京大学大学院工学系研究科修了・博士(工学)。東洋大学工学部電気電子工学科助教授、東京大学工学系研究科総合研究機構助教授、バイオエンジニアリング専攻准教授を経て、東京大学大学院工学系研究科マテリアル工学専攻教授。2015年から(公財)川崎市産業振興財団ナノ医療イノベーションセンター(iCONM)主幹研究員を兼務。応用物理学会フェロー。
※プロフィールは、論座に執筆した当時のものです
出島に集まる好学者③ 手と目が頼りの看護界に越境する工学者
私は現在、「ナノ医療」の研究をしている。典型的な異分野融合の研究だ。物質合成の研究で学位を得た後、半導体の微細加工の分野で研究者としてのキャリアを始めたが、これらの知見をバイオ分野に応用して病院検査室の機能を小型のチップ上に再現する技術開発を行っている。
病気が発症する前に早期に発見し、治療に繫げることができれば、医療費が抑えられ、生活者の健康に貢献できる。予防医療の実現に向けた研究である。
昨今、川崎市の地元の看護協会や看護大学の方々と意見を交換する機会を頻繁に持つようになった。医工融合分野の研究を進める際に医学研究者や医師との連携は不可欠だ。一方で、医療において重要な役割を果たしている看護ケアの担い手との協働の可能性に思いが至らなかったことに今更ながら気づき、「看民工学」を掲げて新たな融合への一歩を進めようとしている。
「看民工学」は、病人を看(み)る「看病」だけでなく病前病後の人々も看るための工学であり、健康時からの啓発・リテラシー教育や治療後の服薬管理や再発予防等を目的とした工学を含む。また、医療消費者である患者のみならず、看護師等の医療従事者を支援する技術・サービスの開発も重要な対象である。
科学・技術を用いて介護や在宅看護の質・安全を落とさず、むしろ向上させながら労働負荷を軽くする。そのようなイノベーションが求められる(「看民工学」については、川崎市産業振興財団の広報誌「産業情報かわさき6月号」参照)。
きっかけは公益社団法人川崎市看護協会への訪問であった。工学との連携の可能性を探るための聴き取りを快諾いただき、看護師の労働環境改善を議論する会合に参加した。端的に言えば離職防止対策の意見交換を行う会合である。
日本の看護・介護現場の課題をまず整理しよう。
世界に先んじて超高齢化が進む我が国では、今後半世紀にわたって85歳以上人口が増加し続ける。今後、複数の慢性疾患を持ち、長期にわたりケアを必要とする人々が増え、医療ニーズは確実に高まり多様化する。団塊世代が90歳を超える2040年には、要介護者数が現在の725万人から988万人に増加し、就労人口の5分の1が医療に従事する必要を求められるとの試算が出された。
すでに医療現場では人手不足が深刻な課題で、外国人労働者の雇用や医療ロボットの活用などに活路を求めているものの、解決は容易でない。少子高齢化による医療費負担増の課題はよく知られているが、実際にはケア人材不足の方が深刻だ。
さらに最近、老々介護やヤングケアラーの問題が注目されるようになってきた。病院だけに頼ることはできない将来が確実に来る。フランスには「在宅入院」という言葉があるそうだが、日本でも今後、在宅医療、訪問看護の比重が増していく。看護は看護師だけの仕事ではない。患者本人の生活全般を支えるケアには多くの家族も巻き込まれる。看護、介護(いずれも英語ではナーシング)に追われて仕事をやめざるをえない人もでてくる。離職対策は、社会全体が抱える大きな課題となるだろう。