市場の「見えざる手」が見える? 「ダイナミックプライシング」が変える未来
2019年12月18日
「ダイナミックプライシング」という言葉をご存じだろうか。世の中の価格を劇的に変えてしまうかもしれない、新たな値決めの手法である。
AI(人工知能)技術を使って、チケットが購入される時期、需要、市況、天候などのビッグデータを活用し、リアルタイムで価格を変えていく。
米国で40年前に誕生したこの手法は近年、コンピューターやAIの飛躍的な性能向上によって実用化がいっそう容易になった。スポーツや音楽イベントのチケット販売で急速に実績をあげている。
日本でも今年から本格的に導入が広がった。この手法が広がれば消費者の選択肢を広げ、購買の機会を増やせる可能性がある。一方で、貧しい人々には不利になるという指摘もある。
日本の興行ビジネスの世界にダイナミックライシングの手法を初めてもちこんだキーマンに、同システムと消費の未来展望を聞いてみた。
ダイナミックプラス社。ダイナミックプライシングを日本の興行の世界に導入するために2018年6月、三井物産、ヤフー(現Zホールディングス)、ぴあの3社が出資して設立した会社だ。
同社立ち上げの中心になったのは社長の平田英人(45)である。三井物産の商社マンとしてニューヨークに駐在していたとき、ダイナミックプライシングの存在を知ったという。日本市場に導入する必要性を感じ、帰国後に急ぎプロジェクトを立ち上げた。
同社はいま、チケット販売では日本で唯一のダイナミックプライシング・サービスを提供する専業事業者として普及に努めている。
ダイナミックプライシングが世界で初めて導入されたのは1977年。導入したのは大手航空会社のアメリカン航空だった。
そのころ航空業界は安売り航空会社の出現で大手の経営が揺らいでいた。そこでアメリカン航空が競争力維持のため考案したのがこの新しい柔軟な価格決定システムだった。
それまでの航空運賃には空席がたくさんあっても柔軟に価格を割り引ける仕組みはなかった。たとえば100人乗りの航空機に30人しか乗客がいなくても、そのまま飛ばして70人分のチケットの販売機会を丸々損していた。
アメリカン航空はこのシステムの導入で販売機会を逃さなくなり、ライバル航空会社に対し優位に立った。ライバル会社が価格競争の激化で淘汰されていっても、同社は生き残ったのである。
1990年代後半になると、米国ではホテルや旅行産業でも同様のシステムが採用されるようになった。2009年には4大スポーツ(野球、バスケットボール、アメリカンフットボール、アイスホッケー)や演劇のチケット販売にも広がっていった。
さらに2010年以降にはアマゾンに代表される電子商取引の分野に採り入れられ、近年ではウーバー・テクノロジーズなどの自動車配車料金や、民泊のAirbnb(エアビーアンドビー)など新産業で活用されている。ここ数年は音楽興行、小売業にも採り入れられてきた。
平田がダイナミックプライシングの意義について確信を深めたのは、三井物産の商社マンとしてニューヨークに駐在していた2013年7月28日のことだ。
米メジャーリーグで前年オフに引退したばかりの松井秀喜がその日、かつて在籍したニューヨーク・ヤンキースと「1日契約」を結んで本拠地ヤンキースタジアムで引退セレモニーをすることになっていた。
日本人プレーヤーとしてメジャーで大活躍し、名門ヤンキースに引退セレモニーを開いてもらうまでになった松井の最後の晴れ舞台。
平田はこれをどうしても小学1年生の長男に見せてやりたかった。それも、できれば手の届くような場所から――。
松井をもっとも間近で観ることができる観客席は、ヤンキースタジアムの1塁ベンチ裏だ。選手と目が合うようなその場所にいるファンには、ヤンキースの選手たちがときどきコミュニケーションしてくれることもあった。
平田がチケット価格を調べると、最もいい最前列席の値は850ドル(当時のレートによる円換算で約8万5000円)。これにはさすがに手を出しにくい。一番後ろの席なら3ドル(同300円)でも観られる。だがそれでは松井を遠目で眺めるだけになる。
席ごとの価格を調べていくと、最前列から2つ後列の席に500ドル(同5万円)の値がついていた。平田は「松井選手の歴史的な日の姿を目の前で観る体験価値を考えれば、このくらいなら高くない」と考えた。そして長男と自分の2人分のチケットを買い求めた。
松井の引退試合を興奮のなかで楽しんだあと、平田はその体験を可能にさせてくれたダイナミックプライシングという仕組みに興味を抱いた。そこで日米の野球ビジネスの現状を調べた。
ダイナミックプライシングを導入したメジャーリーグと、日本のプロ野球リーグ。1995年当時にはどちらも同じくらいの集客規模、同じくらいのチケット収入規模と言われた。いずれも放映権料とスポンサー収入だのみの経営だった。ところが米メジャーリーグはその後、ダイナミックプライシングを導入し、チケットの販売機会ロスを著しく減らしていた。その結果、チケット収入が大幅に伸び、有料来場者数も増やしていた。
サッカーについても調べると、同じような状況があった。1995年当時、イングランド・プレミアリーグと日本のJリーグは同じくらいの集客力と言われていた。だがその後、プレミアリーグがダイナミックプライシングを採用すると、チケット収入が増え、日本より集客数も多くなっていったという。
平田の提案で三井物産は2013年、このシステムのアルゴリズム(コンピュータープログラムに適用する手順・方式)を米社から試験的に導入した。日本のスポーツ界にダイナミックプライシングを広げるためだ。
2017年、ヤクルトスワローズとソフトバンクホークスの協力をとりつけ、実証実験をやってみた。その結果、客席の稼働が増え、収益が増えた。効果が出るめどがつき、正式に起業を決め、米社からアルゴリズムを買った。
2018年6月、ダイナミックプラス社を設立。株主は当初、三井物産、ヤフー(現Zホールディングス)、ぴあの3社だったが、その後、音楽興行のエイベックス・エンタテインメントも株主に加わった。
ダイナミックプラス社が狙う市場は、コンサート、各種スポーツ、テーマパーク。さらにはホテルや配送、駐車場など多くのサービス産業だ。
市場開拓はまずプロスポーツ界から始まっている。プロ野球ではソフトバンクが2020年から全席で導入する予定だ。Jリーグでは、名古屋グランパスと横浜Fマリノスが2019年から全席で導入ずみだが、これに続きベガルタ仙台、川崎フロンターレ、湘南ベルマーレ、ガンバ大阪、セレッソ大阪、清水エスパルス、浦和レッズ、松本山雅などにも採用された。
導入効果はあったか。プロ野球のオリックスバファローズは2019年5月、京セラドーム大阪での主催試合(7月16,17日開催)のチケット販売で、ダイナミックプライシングを導入した試合としなかった試合の比較実験を試みた。両試合とも平日夜の開催で球場も同じ。対戦相手も同じ東北楽天ゴールデンイーグルスで、ほぼ同条件である。導入した試合は、導入しなかった試合に比べて券売枚数が12.3%多く、売上高は17,9%多かった。(以下の表参照)
横浜FマリノスのJリーグでの試合の成果も見てみよう。2019年5月18日に実施したヴィッセル神戸戦。ホームの日産スタジアムの収容可能人数は7万2000人。この日は4万4000人の観客を動員した。この試合の先行販売から一般販売に至るまでの席ごとの販売価格の推移をみると、最も安い席の値は変わっていない。だが、条件がいい席の値が次第に上がっていった。席の条件によって価格がバラけていく様子がグラフからわかる。(※以下のグラフ参照)
Jリーグのサンフレッチェ広島のある試合では、80%の稼働率でも販売価格が8%高くなったケースもあった。
とはいえ、ダイナミックプライシングは人気席の値を上げることだけが目的ではない。バファローズのモデル試合では3500円の席が1500円で売られるケースもあった。
ダイナミックプラス社が調べたある米メジャーリーグ球団でのチケット販売例では、値上げしたチケット販売数は8万枚だったのに対し、値下げしたチケットは37万枚と圧倒的に値下げのほうが多かった。それで減収になるかと思いきや、チケット収入は全体では増加していたという。販売機会のロスをなくすプラスの効果が上回ったということだ。
ダイナミックプライシングのシステムを作るには、提供するサービスごとの特性や状況に応じてどう価格が動くかのビッグデータが必要になる。このため同社は、Jリーグから4年分のデータを提供してもらい、60~70パターンの価格設定を準備した。プロ野球では100パターンとなった。ソフトバンクホークスから4万席収容のゲームの150試合分(2年分以上)のデータを提供してもらい、AIに機械学習させた。
「ダイナミックプライシングが価格を上げるための仕組みというのは誤解です」と平田は話す。「価値を適正化し、多くのお客様に満足してもらい、その結果、事業者側が収益も最大化させる。そのためのものだと私は考えています」
Jリーグでは「富士ゼロックス・スーパーカップ」「Jリーグワールドチャレンジ」「ルヴァンカップ決勝」など大きな大会でもダイナミックプライシングによるチケット販売が採用された。ラグビーのサンウルブズの試合にも採用され、プロバスケットのBリーグでも導入が検討されているという。
音楽分野でも広がっている。2019年11月下旬、日本初の全席ダイナミックプライシングでの音楽イベントが行われたほか、2019年12月31日の浜崎あゆみのカウントダウンライヴでも導入されている。
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