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電子書籍への違和感(下)――書物も電子書籍も「物質」である

福嶋聡 MARUZEN&ジュンク堂書店梅田店

 かつてぼくも、われわれ書店は数百立方センチの紙の束を売っているのではない、そこに書かれた情報を売っているのだ、と言っていた。しかし、やはりわれわれ書店が売っているのは、紙の束なのである。

 そのことに改めて、そしてむしろ肯定的に気づかされた本に出会った。藤本一勇著『情報のマテリアリズム』(NTT出版)である。

 コンテンツとメディア、即ち情報とその容れものをあたかもそれぞれが独立した存在であるかのごとく切り離して考える「情報独立主義」を取る今日の情報社会論やメディア論は、「物質」問題を捨象したり軽視したりする点にその特徴があり、いわば「哲学の亡霊に取りつかれている」と藤本は言う。

 “情報の無限空間という考え方にはプラトン主義の残しがある。さらに言うなら、多くの情報社会論は我知らずコンピューター・テクノロジーを使った新プラトン主義を語っているのではないか”

 メディアが多様化し、かつその多様化が加速化される中で、コンテンツ=情報がそれらメディアとは別のところにある実在であるかのように語られることが多くなってきた。それらを藤本は、2000年以上前にイデア界を現実界とは別に想定したプラトン主義の末裔と見るのである。

 例えばインターネットは、人類の長年の夢だった物質性からの解放を実現する、まさに人類史的革命(情報による革命)であった。マーク・ポスターは、デジタル複製技術に私的所有権に立脚する資本主義の転覆の可能性を見出し、ローレンス・レッシグは、この「革命」を先送りにしようとする既得権益層からの規制に対して憤る。

 一方、見田宗介によれば、「情報化社会」は、自然や文化の有限性を「脱出」した、資本主義の完成形態である。

 「メディアはメッセージである」とメディアそのものの役割と力を論じたマーシャル・マクルーハンもまた、コンピューターネットワークを介して地球が一個の脳・精神体となり、従来の制限された情報の流れから生み出された国境、人種、宗教、言語による壁が乗り越えられるという、コンピューター環境にまつわる政治・経済構造や人々の思惑や欲望をあまりにも捨象した「電脳プラトニズムの夢」を見た。

 だが、メディアを不要とするコンテンツは無く、

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