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國分功一郎 【哲学で読み解く民主主義と立憲主義(1)】――7・1「閣議決定」と集団的自衛権をどう順序立てて考えるか

國分功一郎(哲学者)

國分功一郎 哲学者、高崎経済大学准教授

*この原稿は、2014年8月31日、東京・国立市公民館で開かれた「『図書室のつどい』 哲学と憲法学で読み解く民主主義と立憲主義」(國分功一郎氏、木村草太氏)の講演をもとに構成したものです。

 今日はこのようなすばらしい場にお招きいただきましたことを心から感謝いたします。公民館の職員の皆さん、本当にありがとうございます。また木村草太さんからはいつも知的刺激を受けておりまして、今日こうしてお話できることをとても楽しみにしてまいりました。

 ただ、他方で大変緊張もしております。

提供=国立市公民館提供=国立市公民館
 今日、部屋に入りきらない程の方々が公民館にお越し下さったということがその理由の一つです。これだけの数の方々を前に話をするということで非常に緊張しています。

 でも、それだけではありません。今日これから扱おうとしている話題は、今の日本政治の先端部にあるものです。これについては実にいろいろな意見の方がいらっしゃるでしょう。ですので、この問題について発言することそのものが大変な緊張を強います。

 また、それだけでもありません。実は現在、これは非常に懸念されるべき事態ですけれども、公民館などで政治におけるホットな話題を扱うということ自体がどうも忌み嫌われつつあります。公共機関で政治の話をするのを避けようという雰囲気がなんとなく作られつつあるのです。

 すぐ隣の国分寺市で、憲法をテーマに活動をしているグループが、これまで毎年参加してきた国分寺まつりへの参加を拒否されるという事件がありました。「政治的」であるものはお祭りには入れられないという理由のようです。

 少し前には、さいたま市内の公民館が発行する「公民館だより」が、「梅雨空に『九条守れ』の女性デモ」という俳句の掲載を拒否した事件もありました。「公民館だより」はそれまで、毎号、俳句サークルに小さなスペースを提供していたんですね。これまでは、そこに会員互選で選ばれた一句を掲載してきたのに、この俳句については「載せられません」と言ってきた。

 こうした事件が起きる時、決まって「政治的」という言葉が出てきます。とても奇妙な言い方です。政治というのは皆に関係することですから、むしろ、皆で積極的に関わっていかねばならないはずです。

 一応僕らは今、民主主義の社会を生きていることになってますけど、民主主義というのはやや乱暴なところがあって、ある一定の条件を満たすと勝手にメンバーにさせられるんですね。

 大人になっていて、国籍を持っていて等々の条件を満たすと「あなたも必ず参加してください」となる。これはもちろん大切なことなんですけれども、ある意味では、大変な重荷でもあります。全員に責任が付与されるわけですから。

 ならば、むしろ公共機関こそが率先して、意見が割れている「政治的」問題を知り、理解し、それについて考えるための機会を積極的に提供しなければならないはずです。公共機関だから政治的なことに関われないなんていうのは本当におかしなことです。

 日本だとあまり話題になっていないんですけれども、スコットランドの独立を問う住民投票というのが9月18日にあります[※その後、投票が行われ、独立は否決された]。僕は結構注目しています。UKからスコットランドが独立するかもしれないなんて、驚くべき住民投票ですね。

 因みに、独立派は中高年が多くて、若い人は反対だっていう話です。つまり若い人はそんなことどうでもいいと思ってるみたいなんですが(笑)、それはさておき、これは完全に国を二分している話題ですね。

 僕は自宅でCS放送のBBC[イギリスの公共放送]に加入しているんですけど、ニュースを見ていると、国を二分しているこの話について、ものすごい議論しているんですよ。でも、それって当たり前ですよね。国を二分する話題だからこそ徹底的に議論するのが当然です。

 それなのに今、日本では、意見が割れている話題だから扱わないという雰囲気が強まっている。本当におかしな事です。ですから、今の日本で意見が割れている話題について、こうして公にお話できる機会をいただけることに、僕は大変感謝しています。これからもずっと続けていただきたいと思います。最初にこのことをはっきりと述べておきたいと思います。

政府はなぜ憲法解釈の変更をしたいのか?

 さて、事前の打ち合わせで木村さん、そして公民館の方とかなりやりとりをしまして、タイトルもじっくりと考えて決めました。「哲学と憲法学で読み解く民主主義と立憲主義」というのが今日のテーマになります。

 このテーマが選ばれたきっかけとしては、今年の7月1日に行われた、一般に「解釈改憲」と呼ばれている閣議決定があります。この閣議決定にはいかなる意味があるのか、これをどう考えればいいのか。それを憲法の視点と哲学の視点で読み解き、そこから広く、民主主義と立憲主義について考えようというのが今日の主旨です。

 この主旨はすばらしいんですけれども、私にとっては困難もありまして、どういう事かと申しますと、この問題を憲法学で読み解くのはすごく真っ当な感じがしますが、哲学で読み解くのはどうすればいいのかということなんです。

 僕もテレビでニュース解説とかやっているので、この件についてしゃべりたいことはたくさんあるんですが、その際に「哲学」というものをどう背負ったらいいのか、すこし考えました。そしてこんなことを考えました。

 哲学というのは論理によって概念を扱う学問です。論理的に様々な概念を論じ、それを巡る議論を整理するのです。ならば、この「解釈改憲」と呼ばれている事件についても、同じことをしていけばいいのではないだろうか。つまり、概念を使いながら、論理的に議論を整理していく。

 議論を整理していく時に重要なのは、どういう順序で現状を見ていくべきかということです。順序、これがとても大切になります。僕は僕なりの順序を今日皆さんにご紹介したいと思います。

 順序が大切というのはどういうことかと言いますと、別に揶揄(やゆ)するつもりはありませんけれども、この話題になるとしばしば、「戦争反対」とか「戦争が起きる」という言い回しがまず最初に出てくるんですね。

 そういう言い回しがリアルな感触をもって世の中で語られているという事態は軽視できないことです。しかし、現状を分析し、議論を整理し、順序立てて考えていくためには、多分そこから入るのはよくないだろうというのが僕の考えなのです。だからどういう順序で物事を整理すべきかを考えます。これが一つめの課題です。

 もう一つの課題は、この件に関して何度も取り上げられている「民主主義」や「立憲主義」という言葉、あるいは難しく言うと「概念」ですね、これを或る程度定義して、それにまつわる問題を僕なりに皆さんに提起することです。この二つの課題を試みたいと思います。

 さて、7月1日、政府は「閣議決定」という形で、現行の憲法のもとでも集団的自衛権の行使が限定的に容認されるという解釈を示しました。「示した」といっても閣僚たちがどこかの部屋に集まって、15分ぐらいで何か文書にサインしたということなんですね。

 その法的地位というのは曖昧なんですが、簡単に言えば、「政府はこれからこういう考えで法律をつくっていくからよろしくね」という宣言のようなものです。国会で制定された法律とは全く性質が異なります。

 これに関して、僕は2つの視点で見ていきたいと思います。なぜ二つあるのかについては後で説明します。

 まず考えないといけないのは、なぜ今の政府が、集団的自衛権の行使を認めるような憲法解釈の変更をしたいのか、したかったのかということです。

 なぜこれをやりたいんでしょうか? それがわからないと事態が見えてこない。結果として予想されることをただひたすら批判しても、どうしてこういうことをしたいのかがよくわからなければ、いま起こっていることの全体像は見えないのです。

 では、それをどうやって考えていったらいいだろうか。

 先ほど申しましたとおり、閣議決定というのはある種のポリシーの確認にすぎません。では、この後に何をやるかというと、このポリシーに沿って法律をつくっていくわけです。あるいは、今ある法律を変更していく。つまり、今の政府が言うところの「集団的自衛権」が行使できるような法律を整備していく。

 でも、そうやって考えていくと、「あれ?」という感じがしてくるんです。これから法律をつくって何かをやるというのなら、別に今の憲法のままでいろいろ法律を作ればいいのではないかという感じがしてくるわけです。 (つづく)

●國分功一郎(こくぶん・こういちろう)
1974年生まれ。哲学者。高崎経済大学准教授。早稲田大学政治経済学部卒業。2006年、東京大学大学院総合文化研究科表象文化論専攻博士課程単位取得満期退学。著書に『スピノザの方法』(みすず書房)、『暇と退屈の倫理学』(朝日出版社)、『ドゥルーズの哲学原理』(岩波書店)、『来るべき民主主義――小平市都道328号線と近代政治哲学の諸問題』(幻冬舎新書)、『哲学の先生と人生の話をしよう』(朝日新聞出版)など。