彼の魅力が全開した東映任俠やくざ映画
2015年02月07日
2014年11月10日に逝去した俳優・高倉健をめぐって、新聞雑誌等には実におびただしい言葉が書かれた。またテレビでも、多くの「証言」や「秘話」が映像とともに紹介され、健さんの主演作も続々と放映された。映画館でも健さんの主演作の本格的な特集上映が始まろうとしている。
そして、高倉健という"最後のスター"についてわんさとひしめくトピックの過半は、たとえそれが役者としての健さんの魅力に触れている記事でさえ、つまるところ彼の<素顔>に迫ろうとするものだ。
しかしながら、健さんは寡黙で不器用だった、いや実は話がうまくて生き方上手だった、うんぬん……とどれほど言葉が費やされようと、はたまた健さん自身のどんな発言が蔵出しされようと、われわれは健さんの<素顔>なるものに決して到達しえないだろう。
既成の健さん神話に、新たな神話が――場合によっては「神話破壊という神話」が――塗り重ねられていくだけだ。
そもそも極論すれば、どんな人物についてであれ、その<素顔>を他人が正確に見抜くことなど不可能である。
われわれは誰それについて、「まあこんな人柄だろう」と何となく納得することしかできないのだ(だからこそ、「なぜあの人が××したのだろう!?」と驚かされることが時に起こるわけだ)。
ましてや、カメラに向かって様々な役を演じ、スクリーンの中でその身体表象を観客にさらす映画俳優の場合、彼・彼女の姿は変幻自在なイメージの乱反射として――映画の内外で――、われわれの目の前を通り過ぎてゆくばかりである。
むろんインタビューに応じる俳優の態度や喋りも、映画の中でとは異なる演技であり、そうした場での俳優は<素顔>を演じているにすぎない。
となれば、他界した俳優を追悼する場合、やはりその俳優ならではの持ち味やオーラと、それと混然一体となった彼・彼女らの代表作の魅力を語るのが、いわば<渡世の義理>ではないか(ここで言う「渡世」とは「生活していくための稼業」、「義理」とは渡世上で守るべき筋道・筋目)。
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