真魚八重子 著
2016年04月21日
去年(2015年)、『映画系女子がゆく!』(青弓社)という本が出た。著者は真魚八重子(まなやえこ)。
その後、朝日の映画欄や映画雑誌などで、彼女の名前を見る機会が増えて、気になって仕方なくなった。女性性を感じさせない文章で、ひとことでいえば文体に癖がない、対象にぐずぐずこだわらない。女性作家でいうなら向田邦子のよう。なんだ、「映画系女子」というのはウソじゃないか。
この本『映画なしでは生きられない』が出たときは、真っ先に後ろから読んだ。
あったあった。そのラストの文章を引用してみる。
「わたしも本当は死にたいなと時々、道で立ち止まるように思う。ただ、死ぬ勢いも切迫感もないから、よろよろと歩いているだけ。映画は、自分がいま死なない代わりに、スクリーンのなかで俳優が代替行為として死に向かう。(……)生きていたくない気持ちを浄化し、とりあえず明日、もう一本映画を見ようと思う」
「映画を見る」=「生きる」という感覚は、わたしにも理解できる。映画はわたしのもうひとつの人生に、直にパワーを与えてくれるのだ。
本書は、映画評を集めたアンソロジーなのだが、ほとんどは書き下ろしである。とりあげられた映画の一部を抜き出してみる。
『マッドマックス 怒りのデス・ロード』、三隅研次監督と市川雷蔵のコンビによる『斬る』『剣』『剣鬼』の〈剣三部作〉、ビリー・ワイルダーの『アパートの鍵貸します』『昼下りの情事』から、スピルバーグとトム・クルーズ、成瀬巳喜男『杏っ子』『山の音』、野村芳太郎『八つ墓村』『真夜中の招待状』まで、そしてラストが「生きていたくない人へ」と題された『ゼロ・グラビティ』『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』『フィルス』等々である。
目ウロコの新説を述べるとか、言いにくいことをずばり言う、というスタイルではない。ごく普通の感覚をもって、おかしな映画には、どんな有名な映画であろうときちんと指摘する。そのポジションは安定していて、自分語りをほとんど交えない。
殊に際立つのは映画、とくに日本映画に潜む女性蔑視を指摘した記述である。こう書くと誤解を招きそうだが、フェミニズムの視点はまったく感じられない。素朴な疑問として、正攻法のまま剔抉(てっけつ)しているのである。
たとえば、女性映画の巨匠と認識されていたこともある成瀬巳喜男の『山の音』。
著者は舅と嫁の愛情の気持ち悪さ、居心地悪さを執拗に書き連ねるが、それは原作の川端康成の底にある気持ち悪さなのである。
成瀬は、林芙美子の『めし』もそうだが、会社からあてがわれた原作の誤謬を、そのままに持ち込むスタイルの人。いわば彼の作家性の特色のひとつなのだが、著者はそこまで踏み込まない。その深みに立ち入ることは、彼女の「映画を見る=生きる」の方向性からは、外れてしまうからだ。
そんなヒマがあればもう一本映画を見よう。大学の映画学科の卒論を書いているのではないのだ、という強烈な主張を感じる。
最近では、みんながよってたかって深読みしている『マッドマックス 怒りのデス・ロード』(なんとキネマ旬報2015年ベストワンである)にしても、彼女はまったく深入りしない。
隻腕の女性闘士が反逆し、最後は王に推されるという特異な世界を描き、監督のジョージ・ミラーがフェミニズムの女性作家をアドバイザーにしたことからして、いわば論争を前提にした作品なのだが、著者は思想的切り口を無視している。
ようするに「そこに映画がある」なら、あえて否定したり肯定したり騒いだりしなくてもいい、という割り切りがある。
彼女は『ゼロ・グラビティ』を泣きながら見た事実も、ほんの1行しか書かない。さらっと書き流す。いや、書かないことが逆に主張になっている。
自分は映画を愛し、映画を生きる。そのために言葉を連ねる。共感してくれる人がいて、すこしでも映画に救われる人が出てくれれば本懐。これは「差別的言辞」のようだが、「男前」の映画評なのであった。
蛇足になるが、わたしの後輩で映画好きを自任するY嬢は、本書の映画評にシンパシイを覚える、との感想を述べてくれた。帯にある女優・橋本愛の、「共感しました」という言葉と重なった。
*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
*「神保町の匠」のバックナンバーはこちらで。
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