[上]「巨人軍の一員であることに誇りを持っていました」
2021年02月05日
読売巨人軍の選手からプロレス界へ。世界を股にかけて活躍した馬場正平=ジャイアント馬場は、一人の心優しい男でもあった――。それは妻・元子と交わしていた数多くの手紙にも表れている。没後22年にして初めて明かされた往復書簡など貴重な一次資料をもとに、馬場に最も信頼されたスポーツライターが書く、語られなかった真実。
暑い夏だった。2020年9月3日、新潟県三条市で、9月としては統計開始以来国内初となる気温40℃超え(40.4℃)を記録した。
その1カ月前。8月上旬の三条もまた暑かった。有無を言わさぬ暴力的な日差しのもと、筆者は白球を追う中学生に出くわした。
そこはかつて三条市立第一中学校のグラウンドとして、子どもたちが流す汗を吸い取っていた場所。校舎は数年前、近隣の土地に新設され跡地は公園となったが、グラウンドはマウンドやバックネットとともに残った。
彼らは同校の野球部員だった。
しばし練習風景を眺めたあと、指導者にお願いして彼らを集めてもらった。そして、ある質問を投げかけてみた。
「プロレスラーのジャイアント馬場って知ってる?」
サササッと手が挙がる。三条に生まれ、209センチの長身を武器にプロレスラーとして一時代を築き、2016年には三条の名誉市民に選定された人物のことは、中学生であってもさすがに基礎知識として把握しているようだった。では、もうひとつ。
今度はサササッとはいかなかった。知っている子もいたが、おおむね反応は鈍かった。
無理もない。1938年1月生まれのジャイアント馬場こと馬場正平が中学に入ったのは1950年の春。彼らにとっては70年も前の「歴史上の出来事」なのだ。
第一中学では3年時にピッチャーとして中越地区大会優勝に貢献した馬場。卒業後は、やはり地元の県立三条実業高校の機械科に進んだ。その三条実業も今は存在せず、現在は新潟県央工業高校となっている。
高校では入学直後に野球の継続を断念している。理由は自身の大きな足に合う硬式野球用のスパイクがなかったこと。馬場は本人いわく「泣く泣く」美術部に籍を置いた。
ところが、馬場は高校2年の春に野球部の一員となる。部の顧問がスパイクを特注で作ってくれたのだった。
エースで4番。練習試合では白星を重ね、いつしかチームは甲子園へと直結する夏の大会の優勝候補に数えられるまでになった。
だが、長岡高との初戦は0対1で無念の敗退。馬場は完投しヒットも4本しか許さなかったが、エラーが絡んでの1失点に泣いた。ならばと翌春のセンバツ、遠くは1年後の夏に向けて、捲土重来(けんどちょうらい)を期したはずである。しかし、思わぬ話、いや夢のような話がまもなく16歳の少年のもとに舞い込んだ。
家族も周囲の人間も、こぞって背中を押した。壮行会も何度となく開かれた。だが、馬場はその期待に応えることはできなかった。
在籍5年間で一軍登板はわずかに3試合。通算0勝1敗。1959年限りで巨人をクビになったあと、大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)の春季キャンプ中に入団テストを受け「内定」も得たというが、安堵した矢先に宿舎の風呂場で転倒し左ヒジを負傷。左手の中指と薬指が伸びなくなり、グラブを自在に操れなくなった。ジ・エンド。馬場はひっそりと球界を去った。
1960年4月。「三条に戻ってこい」との母や姉の説得を振り切って、22歳の馬場は「日本プロレス」の門をたたく。大きな体を思い切り動かしたい。その一念で力道山の弟子となった。
プロレスデビューは同年9月30日。その後、海外武者修行を経て、1963年12月に不慮の死を遂げた力道山亡きあとの日本マット界を、馬場はメインイベンターとして牽引していくことになる。
そして、還暦を過ぎてもなお闘い続け、ついには「生涯現役」が馬場の代名詞となる。だが、実は38歳になったら第一線を退きハワイに移住する、そんな人生設計を20代のうちに立てていた。
晩年。馬場は事あるごとにぼやいていた。
「社長に
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