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[7]みどりのある未来を

二木信 音楽ライター

 環境エネルギー政策研究所(ISEP)所長の飯田哲也が、音楽プロデューサーの小林武史と福島原発事故後の2011年3月29日に行った対談が、「エコレゾウェブ」というインターネット・サイトにアップされている。

 その対談で飯田は1992年にスウェーデンを訪れた時の体験について語っていた。1980年の国民投票で「原発推進・反対」の二項対立の議論から脱却し、核のゴミ処理や原発作業員の被曝軽減を進めるスウェーデンでは、地域社会のなかでエネルギー政策を民主的に決めていく取り組みを実践し「地域にエネルギー会社があって、みんなで参加し議論しながらバイオマスで自然エネルギー100%を目指すコミュニティ」(http://www.eco-reso.jp/feature/love_checkenergy/20110408_5008.php)があったことに衝撃を受けたという。

 飯田は、世界的な反原発運動の歴史を次のように説明する。

 「1960年代は原子力が右肩上がりだったんですが、同時に環境思想も一気に進んだ時代でした。それが1970年前後の環境保護運動や公民権運動とか、ヒッピーなどの対抗的政治文化につながっていく。(中略)先進国はどこも、1973年に国と国営電力会社が一体になって原子力を進めようとしたのに対して、学生運動や市民運動などによる下からの革命がNOを突きつけるかたちとなりました。環境保護運動と政治的な運動がすべて反原発運動に合流して、世界全体がそれですごく盛り上がるんです。そこからドイツは緑の党が生まれましたし、スウェーデンはもつれ合いながら、最後は国民投票になりました。日本だけは反原発運動は、ほぼ完全に無視されて、アウトサイダーに置かれ続けたというか、国会の議論にはまったくならなかったんですね」(前掲同)

 欧米では70年代から80年代にかけて環境保護運動の盛り上がりとともに、反核・反原発の思想も広まり、政治的にも文化的にも主要なテーマの一つとなった。環境思想が文化的な領域でも拡がりを見せ、そのことが反核・反原発運動を推進する一つの要因になったということだ。

 たしかにドイツでは1983年に「緑の党」が連邦議会で議席を獲得し、イギリスではロック雑誌「NME」が、80年代を通じてCND(核軍縮キャンペーン)を支援している。70年代後半から80年代中盤にかけて活躍したイギリスのヒッピーやアナキストの流れを組むハードコア・パンク・バンド、クラスは、CNDの活動と関わりながらバンド・メンバーや支援者と農場でコミューン生活を送っていた。

 そういったイギリスでのコミュニティ経験を通じて環境問題に関心を抱き、福島の原発事故以降、反原発デモに参加するようになった人がいる。フリーの翻訳業のASAKO(37歳)は、学生時代に訪れたイギリス、サマセットでの体験をこう話してくれた。

 「日本だと、エコロジーはテレビや雑誌、広告会社が主導して表面的に受容されている側面が強いですよね。企業は物を売るために“これは環境に良い商品です”と宣伝して、消費者もなんとなく、地球に優しいというイメージでモノを買う。でも、私がイギリスのコミュニティで経験したエコロジーはそういうものとは全く違いました。彼らは森を手入れし、自作の住居で暮らし、薪で煮炊きして暖をとることからはじまり、農耕馬や乳牛、豚を飼育し、村のオーガニックマーケットで自分たちでつくった野菜や、りんごジュース、チーズなどを売って生活していました。太陽光パネルなどで電気も自給して極力化石燃料を使わない、手仕事にこだわった生活をしているんです。

 彼らの生活圏の近くで道路建設の計画が持ち上がったり、マクドナルドができると聞けば、抗議行動もします。昨年の311以降、同州にあるヒンクリーポイント原子力発電所に抗議する封鎖行動でも道路に笑顔で座り込む彼らの姿を写真で見ましたよ。地元の人や訪れる人のためにガイドツアーやパーマカルチャー(注 Permanent(恒久的な)とAgriculture(農業)を掛け合わせた言葉。持続可能で環境に負荷の低い生活を目指す文化)の講座を行ったりもしていました。そういったエコロジーと地域社会がゆるやかに結びついたコミュニティをエコ・ヴィレッジと呼んだりします。彼らは法律と闘いながらコミュニティを維持して、いかに環境に負荷をかけずに自然とともに生きるかを模索していました」

 そのように自分たちのライフスタイルを守る自治の作風に触れるなかでASAKOは少しずつ触発され、2001年に、留学先のロンドンではじめてデモに参加したという。

 「911のアメリカ同時多発テロのあとに起きた、アメリカやイギリスのアフガニスタン空爆に反対するデモに参加したときに、イギリスの人は“自分の責任を果たす”という動機から参加している、そういう側面が強いと感じました。当たり前のこととしてデモに行っている印象だったんですよ。私も反原発デモがあると知ったときは普通に参加しようと思いました」

 ASAKOが経験したコミューンのアナーキーな実践とは異なるが、福島の原発事故以前から、日本の地域社会のなかでもエネルギー自給の試みが独自に行われている。ISEPのリサーチアシスタントの氏家芙由子(31歳)も、福島原発の事故以前から脱原発運動とエネルギーシフトの活動にたずさわってきた人物だ。氏家は自らのこれまでをこう語る。

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