野球人、アフリカをゆく(12)アフリカでの野球伝道のための3ステップ(映像あり)
2019年09月21日
<これまでのあらすじ>
危険地南スーダンに赴任した筆者は、ガーナ、タンザニアでの野球の普及活動の経験をいかし、3か国目の任地でも首都ジュバ市内に安全な場所を確保して野球教室を始めた。初めて野球を目にした子供たちとの信頼関係も徐々にできてゆく。ようやく試合ができるレベルになってくると、試合前に整列して礼をする日本の高校野球の形を導入していった。こうした野球哲学が形成されたのはタンザニアだった。
人口430万人。東アフリカの大国、タンザニア連合共和国の経済首都、ダルエスサラームは巨大な街だ。2018年12月上旬、私は南スーダンの職場を4日ほど休み、タンザニアに向かった。
首都ジュバ国際空港を夕方17時過ぎの便で出発し、エチオピアのアジスアベバ経由でダルエスサラームのジュリウス・ニエレレ国際空港に着いたのは午前3時。直線距離では2000キロ弱。札幌から博多くらいの距離なのだが、直行便がないのでトランジットを入れて10時間もかかる。到着後、いったん宿泊先のホテルにチェックインし、仮眠をとったあと、借り上げた運転手付きレンタカーで午前9時にホテルを出発した。
車は5分くらいで目的地についた。近代的に見える10階建てのオフィスビルの8階までエレベーターで昇り、エレベーターホールから廊下を進む。いくつかドアの前を素通りし、とある部屋のドアをノック、開けながら「ハバリ・ザ・アスブヒ」(スワヒリ語で「おはようございます」)と声をかけた。
「オー!ミスター・トモナリ!!カリブサーナ!(ようこそ!)」
快活な大きい声で反応したのは、タンザニア野球連盟のンチンビ事務局長だ。小柄で小太りだが、黒光りする丸顔は表情豊かで存在感がある。
「今日はエレベーターが動いてくれて助かったよ!」という私に、「ガハハハハ」と豪快に笑いながら「昨日はビルの電気が止まっていたから、今日はラッキーデーだよ」と言い、6帖くらいのオフィスの奥にある執務机から立ち上がった。満面笑みの心底嬉しそうな表情で、何度も「カリブ、カリブ」(ようこそ、ようこそ)と言いながら近づき、握手の後、がっちりとハグしてきた。
私に椅子を勧めながら、自席に戻ったンチンビは最新の話題を振ってきた。
「いやいや、まだ始まって3か月くらいだから。野球といえるような状態になるのは、まだまだ先だよ。今のタンザニア野球に比べたら、足元にも及ばないレベルだよ」
満面の笑顔のンチンビは、私が時折発信するフェイスブックの熱心な読者だ。南スーダン野球の状況をよく知っている。
「南スーダン野球もそのうちタンザニアのように発展するでしょう。親善試合ができる日が待ち遠しいですね」と持ち上げるンチンビ。
「ところで、タンザニアKOSHIEN大会の準備状況はどう?」
再会の喜びをもっと楽しみたいところだが、時間もないのでさっそく本題に。
「関係者による最終確認会議は予定通り今日行います。野球13校、女子のソフトボールが5校、計18校270名の参加者が今日続々とダルエスサラーム入りしています」
「まだ6回目の全国大会なのに、すごい規模になったなあ。最初の参加は4校だけだったのに」
「ミスター・トモナリ。今回はご案内した通り、オープニングセレモニーにはタンザニアの首相が列席します。スポーツ大臣も来ます」
ンチンビの目が、ぐっと真剣になる。
「いや、びっくりしたよ。首相が来るなんて、なによりの広報効果だね」という私に、「野球の存在がタンザニア全国に轟(とどろ)くでしょう。それだけに失敗が許されません」とやや興奮気味のンチンビ。
「そうか。みんなで頑張っていこう」
タンザニアKOSHIEN大会。もちろん、本家本元の「甲子園」からとった、全国のセカンダリースクール(日本で言えば中学2年から高校2年までの4学年相当)の野球大会の名称である。100年を超える本家とは違って歴史はまだ浅く、第1回大会は2014年2月だ。
ここでタンザニア野球が始まった経緯を紹介したい。
2012年1月、私はJICAタンザニア事務所の次長として、タンザニアに赴任した。タンザニアは人口5000万人超、面積が日本の2.5倍もあるアフリカの大国だ。農業国だが21世紀に入り資源開発が進み、近年では、鉱業、製造業、商業、通信業、金融業の発展を原動力に、高い経済成長を続けるアフリカのトップランナーの一つだ。
とはいえ、まだまだ貧しく開発の余地がたくさんある。2012年時点で人口の7割が30歳未満という若年層の多さは、労働力増加や市場規模拡大など、中長期にわたってさらなる経済発展が見込まれている。
防弾車に乗って、歩行禁止、夜間外出禁止と、制限の多い暮らしを強いられる南スーダンと違い、タンザニアは基本的に安全な国だ。盗難などの犯罪は多いが、命の危険を感じるような場面ほとんどないと言っていい。昨今は経済成長のひずみでモータリゼーションが激しく、交通事故が多発している面はあるが、独立が1961年とアフリカでは早く、政府もしっかり機能、治安の良さや経済政策が着実な発展につながっている。
ここで疑問に思う人が多いと思う。なんでそこまでして野球なのか、と。
私は10歳の時に野球をはじめ、中学、高校、大学と野球を続けたが、ガーナに赴任し、ガーナ人と野球を通じて交流する中で、新たな野球の魅力に気づくことができた。野球は多くのことをアフリカにもたらすことができる。そんな思いから、「アフリカ野球友の会」を立ち上げて、アフリカに野球を紹介する活動を続けてきた。
タンザニアに赴任した2012年は、同会を立ち上げてちょうど10年目。私にとっては、「アフリカ=野球」なのである。三度の飯より野球が好きな自分が、アフリカ赴任時の携行品として日本の食材より野球道具を選択することは、極めて自然なのである。
大国タンザニアには、野球をやっている人たちが少しはいるだろう。かつてガーナに赴任した時、すぐにガーナの「野球人」たちに出会ったときのように――。そんな期待を胸に目いっぱい道具を詰め込んだのだ。
だが、その目論見は思いっきり外れた。ダルエスサラームには野球の「や」の字も見当たらない。影も形もないのだ。当初宿泊していたホテルの従業員やタクシーの運転手に訊いても、ベースボールなんて見たことも聞いたこともないと、全員から言われる。
しかし、「野球人」との出会いはあった。ただし、タンザニア人ではなく日本人。JICAの青年海外協力隊の一員として赴任していた古賀裕希隊員だ。青少年活動という職種で、ダルエスサラーム市のテメケ区役所に勤務、市内の学校などにライフスキルなどの巡回講義などを行っていた。
彼と会ったのは、赴任早々に日本大使公邸で開催された在留邦人を対象にした新年会。もちつきやお汁粉などがふるまわれ、すっかり打ち解けた歓談タイムの時だった。
私よりもやや小柄だが、浅黒く日焼けした精悍な雰囲気を醸す、礼儀正しい青年が声をかけてきた。彼はいわゆるJICA関係者なのだが、赴任早々で私にとってほとんどすべての人が初対面だった。
「古賀さんは、野球に関心があるんですか?」
「僕は大学まで野球をやっていました。タンザニアでは、赴任したら野球を教えたいと思っていたのですが、まったくチャンスがなくて、うずうずしたまま1年が過ぎてしまったんです」
訊けば彼は長崎県の元高校球児。日本体育大学でも体育会野球部だったというバリバリの野球人だった。初対面ですっかり意気投合し、古賀隊員が空いている時間を使って野球を教えるにはどうしたらいいか探っていこう、ということになった。
私はこの時点で、すでに道筋が見えていた。まずは、①スポーツを司る行政機関に相談に行くこと。そして、②野球を紹介できるような学校を推薦、紹介してもらうこと。そのうえで、③直談判に行くこと、だ。これは1996年にガーナ野球と出会い、2003年に「アフリカ野球友の会」を立ち上げて以来、アフリカ8カ国で取り組んできた、野球に関するさまざまな活動を通じて培ってきた経験からくる確信だった。
②は、やみくもに探すのではなく、然るべき行政組織にお墨付きをもらい、推薦レターを書いてもらい、できれば一緒に行ってもらう。①と同じでメンツの問題もあるし、サポートしてもらいつつ、NSCとの一体感も醸成できる。常にお上を味方につけ、協働する仲間にしておくことは重要だ。私のそれまでの経験で、往々にしてアフリカンは親切だ。その親切心を発揮してもらうような持っていき方が、なんといっても強い。
③は、当たり前のようだが、実はここがとても難しい。直談判が、サッカーやバスケット、バレーボールなど、誰もが知っているスポーツなら話が早いのだが、アフリカでは超マイナーな野球だ。野球がないタンザニアでは、野球とはなんぞや、というところから説明しなければならない。
古賀隊員と私は、趣意書を携えてNSCに直談判に行き、事務局長から三つの学校を推薦してもらった。事務局長からは、タンザニア政府はスポーツの多様化政策をとっており、野球の紹介は大歓迎だとのことだった。ダルエスサラーム市内には体育の先生が配置され、それなりに広いグラウンドがある学校を推薦してもらった。
ちょっと補足をしておきたい。日本では当たり前の「体育」だが、アフリカでは、多くの国で学校の教育現場に体育の授業がないところが多い。語学、数学、理科など、進学のための国家試験科目が優先され、科目ではない体育の授業をやる余裕がない学校が少なくない。だから、多くの学校に体育の教員がほとんど配置されていない。
古賀隊員が仕事が終わってから行きやすい学校を二つ選び、まずはテメケ地区のキバシラセカンダリースクールをNSCの担当者を含め3人で訪問した。登山で言えば、ここまでで7合目。ここからが最後の大きな山場だ。
要するに、日本の甲子園大会のような全国大会の開催を目指し、普及活動をしたわけだ。アフリカ野球友の会は、普及活動に必要なコーチの巡回指導経費のサポートや、野球道具の寄贈、球場建設に関する側面支援などを行った。
野球道具はかなり大量に寄贈した。株式会社ファンケルが全国各地の野球教室で集めていただいた中古野球道具を、いったんアフ友が受け取り、アフリカに送るという流れだ。実はファンケル社には、ガーナのみならず、ケニアやウガンダなどにも道具を寄贈していただいた。タンザニア向けの車の木箱に入れた道具もそうだし、南スーダンに最初に持ってきた野球道具も半分以上はファンケル社から頂いたものだった。
話がそれたが、ガーナプロジェクトの映像はプロの映像マンに編集してもらったので、非常にわかりやすい。伝えているのは「野球を通じて学べること」。規律やチームワーク、負けることから学ぶ野球を通じた人格形成、応援することで培う一体感。野球は人間教育である、ということを訴える内容になっている。
◆ガーナプロジェクトの映像(動画)
校長先生に訴えかけるには、野球というスポーツそのものよりも、野球によって子供たちにもたらされる成果を示すことが重要だ。プレゼンもそこに重点を置いた内容にした。
タンザニアの学校に教員として配置されているJICA青年海外協力隊員の中には、高校野球経験者が数人いた。そこで、彼らの任地の学校にも野球部を設立し、指導することになった。木箱に入れて持ってきた野球道具だけではとても足りず、ファンケル社から追加で道具を寄贈いただき、何回も輸送することになる。
2012年当初、タンザニアには全くなかった野球が、2013年までの間に市内と地方のセカンダリースクールで広がっていった。そうなれば大会を開催したくなるが、そのためには主催者となる事務局が必要になる。日本の甲子園大会が朝日新聞社と高校野球連盟で主催されるように。
そんなある日、2014年12月にU18の世界野球大会のアフリカ予選が開催されることが判明した。そこで同年1月に急きょ、タンザニア野球ソフトボール連盟を立ち上げることになった。そのためには野球に情熱を持った会長と事務局長が必要だ。
次の瞬間、私が野球連盟の会長就任をお願いしたことは言うまでもない。
彼、ドクター・マカタに、事務局長ができる人はいないかと相談すると、「心当たりがあります」。紹介されたのが、ハンガリーの大学院でスポーツマネジメントを勉強したことのある、現事務局長のンチンビ氏だった。
2014年に初開催した「第一回タンザニア甲子園大会」は、ンチンビ事務局長によって見事に仕切られ、北は約600キロ離れたキリマンジャロ山の麓から、西は900キロのソンゲアという田舎町から、そしてダルエスサラーム市内のキバシラ、アザニアの2校、計4校が参加して、ダルエスサラーム市内で開催された。以来、全国大会は毎年、開催され、年々規模が大きくなっていった。
場面はンチンビ事務局長の執務室に戻る。
「ところで、ンチンビさん、第6回の今大会の開会式に、よくあんな超大物を呼べたね。過去の大会は、スポーツ大臣さえ呼ぶことができずに、副大臣が来ていたのに、首相だなんて!」
タンザニアは大国なので、この手のイベントに大臣クラスを招へいすることは難しい。
ましてや大統領、副大統領に次ぐ国家ナンバー3、次期大統領候補となれば、たかが野球大会に招聘するなんてありえない。しかし、ンチンビ事務局長は、フン!と息を吐いていった。
「今回の大会は、タンザニア野球にとって大きな飛躍を示す一大イベントですからね」
そうなのだ。実は第6回大会のオープニングセレモニーでは、過去の大会にはなかった歴史的イベントが待ち構えていた。(つづく)
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