メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

沖縄県民投票に「意味はあった」 ―“救済的分離”という理論が示す可能性

「辺野古」を国際人権法から考える(後編)

阿部 藹 琉球大学客員研究員

 辺野古の埋め立てへの賛否を問う県民投票が実施され、72%という圧倒的多数が「反対」という結果が示されてから2月で2年が経過した。しかし、県民投票でその意思が示された翌日にも工事は継続し、今この瞬間も辺野古の海の埋め立ては進んでいる。

ハンガーストライキ最終日に沖縄県庁前でスピーチをする具志堅隆松さん(筆者撮影)

 そんな中、3月1日から6日まで沖縄県庁の前でハンガーストライキを行った人がいた。38年間にも渡って沖縄戦犠牲者の遺骨の収集を続けてきた沖縄戦遺骨収集ボランティアの具志堅隆松さん(67)だ。

 具志堅さんがハンガーストライキを行ってまで訴えたのは、沖縄防衛局が示した辺野古の埋め立て用土砂の採取計画の断念だった。

 昨年4月、沖縄防衛局は軟弱地盤の地盤改良工事を追加することなどを目的とする設計変更の申請書を沖縄県に提出した。そこには、県内土砂調達可能量の7割を、沖縄戦の激戦地であり、今でも多くの沖縄県民や日本兵、アメリカ兵の遺骨が残されたままになっている本島南部の糸満市や八重瀬町から採取する計画が記されていた。

 具志堅さんは、新たな基地の建設に戦没者の遺骨が混じった土を使うことになれば「戦没者を冒涜するものであり、人間の心を失った行為と言わざるを得ない」とし、ハンガーストライキを通して、沖縄防衛局に対しては採取計画の断念を、玉城デニー知事に対しては事業の中止命令をそれぞれ求めたのだ。賛同署名は5日までに2万筆を超えた。

 67歳になる具志堅さんが土砂採取の断念を求めたこと。そして2年前に埋め立ての賛否を問う県民投票を実現するために、不参加を表明した5つの市に実施を求めて当時27歳だった元山仁士郎さんがハンガーストライキを行なったこと。これらは別々の出来事ではあるが、沖縄の歴史の中で繋がっている。

ハンガーストライキを行った「『辺野古』県民投票の会」の元山仁士郎代表 。医師の診察を受ける前に記者会見した=2019年1月19日、沖縄県宜野湾市

 元山さんがハンガーストライキを行ったことに対し、自民党・國場幸之助衆院議員の政策秘書(当時)だった田中慧氏はツイッターで「ハンストはテロ行為」と批判した。

 しかしテロとは国や地方公共団体などを脅迫する目的を持って、人を殺害したり暴力を振るったり、または公衆が利用する施設などを破壊するなどの犯罪行為を行うことであり、誰も傷つけることなく自らが食事を断つことによってその意思を示そうという行為がテロであるはずがない。

 他人を傷つけず、平和的に、しかし可能な限り多くの人の心を動かし、それを通じて政治を動かすために、元山さんに残された手段がハンガーストライキしかなかったのだ。

 そうまでして県民投票の実施に漕ぎ着け、埋め立て反対の意思が示されたにも関わらず、その声が国の政策に反映されることはなく、さらに今、日本政府が戦没者の遺骨が混じった土ででもそれを行おうとしているという現実。

2019年に行われた県民投票の用紙(筆者撮影)

 もはや、沖縄の声を日本政府に届ける手立てがないーこれは具志堅さんや元山さんを始め、多くの沖縄の人びとが共有している思いであろう。

 本稿ではこの現実と沖縄の人びとの思いを、国際法において深まりつつある一つの理論を通して考えてみたいと思う。“救済的分離”という理論だ。

救済的分離の現時点

 “救済的分離”とは、「様々な手を尽くしてもその声が中央政府の政策決定過程に反映されず、差別を受け、継続的な人権侵害状況にある」特定の集団(People)について、その国からの分離が救済的に認められうる、とする国際法の理論だ。

 この理論の礎は1970年に採択された国連総会で決議された「友好関係原則宣言」の次の一文にある。

“人民の同権及び自決の原則に従って行動し、それゆえ人種、信条又は皮膚の色による差別なくその領域に属する人民全体を代表する政府を有する主権独立国の領土保全又は政治的統一を、全部又は一部、分割又は毀損しうるいかなる行動をも承認し又は奨励するものと解釈してはならない”

 本来、国際法は国際社会の領土的安定性を非常に重視する。そのため植民地の独立などの特定のケース以外で、国境線の変更を伴うような独立や一方的な分離を認めることはほとんどなかった。その現れとして、この文章の後半部分でも、この宣言は主権国家から一部の人びとが独立するなどして政治的統一が乱されることを承認したり、奨励したりするものではないと書いてある。

 しかし、である。この文章の前半部分に注目してほしい。ここには「自決の原則に従って行動し」「差別なくその領域に属する人民全体を代表する政府を有する主権独立国」との言及があり、その領土保全は脅かしてはいけないと記されている。

 ということは逆に言えば、自決の原則を尊重せず、「差別なくその領域に属する人民全体を代表する政府」でない場合、そのように代表されていない人びとは分離が認められるということではないか?

 この解釈が、バングラデシュの独立など「植民地支配からの独立」という文脈では説明し得ない国家の誕生という現実の動きによって深まったことで、“救済的分離”という理論が生まれた。それは、特定の集団(People)が自国政府によって

① 差別的に扱われ
② 継続的で重大な人権侵害があり(アパルトヘイトやジェノサイドなど)
③ 国家の意思決定過程にその意見を反映されず
④ あらゆる手段を尽くしたが、内的自決が達成されない

場合に救済としての分離が認められるという考え方だ。

 ただし、“救済的分離”は、前編で触れた「Indigenous peoples(IP・先住民族)」の権利のように、国際法において確立した権利ではない。しかし同時に救済的分離を否定する国際法も存在しておらず、カナダの最高裁判所のように救済的分離という権利の存在を実質的に認める判断を示した例もある。言ってみれば権利として確立する過程にある概念とも言える。

 示された沖縄の民意と、それがことごとく尊重されない現実。この現実を“救済的分離”というレンズを通して見た時、私にはまるで日本政府が自らの手で、小さな石を一つ一つ積んでいるように見える。その石とは、将来的にもし沖縄の人びとが“救済的分離”を主張した場合に、正当性の根拠となりうる具体的な事実のことである。一つ一つの事実は小さな石かもしれない。しかし、それらが積み重なって礎石となる可能性がある。

イージス・アショア配備計画と辺野古基地建設に見る差別

 例えば沖縄に対する「差別的取扱い」がそれに当たる。記憶に新しいのは山口県と秋田県で計画されていた新型迎撃ミサイルシステム「イージス・アショア」の配備計画の中止だ。

・・・ログインして読む
(残り:約2589文字/本文:約5425文字)