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「子供を真ん中に」と言うけれど~大人の論理から脱却できない首相や役人たち

新旧の教育観が併存する時代の政治に求められることとは

曽我豪 朝日新聞編集委員(政治担当)

 「論座」が終わる。筆者が2020年1月から始めた連載「曽我豪の一石」の記事は26本。最後に書きたいのは、関心を持ち続けてきた教育についてだ。

「曽我豪の一石」の記事は「こちら」からお読みいただけます。

こども家庭庁が発足、看板作製のための習字を手に記念撮影に臨む子どもたちと岸田文雄首相(左端)=2023年4月3日、東京都千代田区

「子供」が政治の一大キーワードに

 こども家庭庁の発足。「こどもまんなか社会」の訴え……。「子供」という言葉は今や、政治の一大キーワードと化した観がある。

 ただ、本当に子供を真ん中の扱いにしているかというと、かなりあやしい。例えば岸田文雄首相。4月3日、子ども家庭庁の発足式で次のように述べた。

「子供たちの意見を聴き、そして頂いた意見をしっかりと受け止め、そして実際に政策に反映させる」

 続く5日には、「G7広島サミットジュニア会議」の席上、高校生たちから提言を受けてこう言った。

 「若い人が集まって議論することは世界の課題を考えるきっかけになる」

大人の側の論理に立つ意識が濃厚

 それはそうだ。だが、どこかよそよそしい。子供の意見や議論をどう評価して扱うのか、あくまで大人の側の論理に立つ意識が濃厚に漂う。

 ふと思った。あれと同じだ。

 同じ4月、広島市の市立小学校3年生が使う教材から、被爆の悲惨さを伝える漫画「はだしのゲン」が消えたが、その際、市教委と市長が語った削除理由の言葉である。

 市教委の指導1課長は、「市にとって大切な作品」としつつ、「漫画の一部を切り取ったものでは、主人公が置かれた状況などを補助的に説明する必要が生じ、時間内に学ばせたい内容が伝わらないという声があった」と語った(東京新聞のtokyo web2月18日配信記事)。松井一実市長も「限られた授業時間の中で分かりやすく説明できる資料に変えることになったと受け止めている」と言った。

 ここには「学ばせる」「説明する」といった一方通行の教育観しかない。疑問が浮かべば、子供たちが自ら調べ、仲間や先生と議論をし、理解と意見を深めればよい。その可能性が最初からはじかれているのだ。

戦後公教育の「古層」

 首相が核軍縮を訴えようと首相が意気込む広島サミットが行われる5月を前に、大人たちが削除したのは、現実を見聞きして、みなで最適解を探る子供たちの機会そのものだった。

 それは、戦後公教育の「古層」そのものだと思う。筆者の体験でもそうだ。

 40年前、戦争を巡る記述の修正が批判された教科書問題のさなか、大学生だった筆者は学内のサークルで、検定前と検定後の本を読み比べた。驚いたのは、歴史事実の修正ばかりではない。公害の原因などを巡り、「みなで話し合ってみましょう」といった議論を促す文章がのき並み削られていた。

 新聞記者になり、文部省(現文部科学省)を担当した時も同じことを感じた。自民党・文部省と社会党・日教組との対決も、結局のところ、双方の歴史観の闘いであり、「教え込む」一点では同根としか思えなかった。

わかっちゃいるけどやめられない!?

 むろん、時代の要請は変わっている。暗記すれば終わりといった詰め込み教育の代わりに、教えられたことをヒントにして議論をし、理解や意見を深化させる教育が求められる時代にはなっている。文科省も、一昨年の主権者教育推進会議の最終報告で、以下のようにそれを認めている。

 「主権者教育で扱う社会的な課題や政治的な課題に唯一絶対の正解があるわけではない」としたうえで、「児童生徒が自分の考えを持ちつつ、異なる意見や対立する意見を整理して議論を交わしたり、他者の意見と折り合いを付けたりする中で、納得解を見いだしながら合意形成を図っていく過程が必要となる」と明記した。

 4月に発足したこども家庭庁も事情は同じ。閣議決定された政府の基本方針を見ると、「こどもの意見を年齢や発達段階に応じて政策に反映」「若者の政治参加の促進」などと相変わらず大人の論理寄りだが、子ども家庭庁がホームページで紹介する子ども基本法の6つの基本理念は色合いが異なる。「自分に直接関係することに意見が言えたり、社会のさまざまな活動に参加できること」が、子供の権利として保障されている。

 要は、新旧の教育観が併存する時代なのかもしれない。俗な言葉だが、わかっちゃいるけどやめられない、ということか。

こども家庭庁設立準備室は昨秋から、こどもまんなかフォーラムを開催し、子どもや若者から意見を聞く取り組みを進めてきたが……=2022年9月22日、東京都千代田区

子供の可能性に学びと気づきが必要なのは……

 それでも、大人が子供の声をつまみ食いして、政策づくりの正当化に利用したり、子供を今の大人に都合の良い大人に育てようとしたりするだけなら、旧来の発想を越える「こどもまんなか社会」は到底、実現しまい。

 いま、誰より子供の豊かな可能性に関して学びと気づきが必要なのは、実は首相や首長、教委ら大人の方ではあるまいか。

 ところで、「はだしのゲン」の削除問題に関しては、既に、朝日新聞でも「天声人語」や「日曜に想う」などで綿密な論考がなされていて、筆者が付け加える余地もない。ただ、連載当時、名古屋市の市立小学校で高学年の「児童」だった自分の実感だけは書いておきたい。

故中沢啓治さんの漫画「はだしのゲン」

感想さえ言い合えなかった「はだしのゲン」

 週刊「少年ジャンプ」の発売日には必ず、級友の家に集っては回し読みするのが決まりだった。「ど根性ガエル」や「トイレット博士」などのコメディには声をあげて笑い合い、「プレイボール」や「ぼくの動物園物語」などのスポ根ものや人間ドラマには、胸に湧き上がった感動を、友に負けじと伝え合った。

 「はだしのゲン」については、半分同じで、半分違った。なぜ、こんな悲惨な物語がジャンプに載るのか、といった異和感はなかったと思う。ただ、覚えているのは、感想さえ言い合えなかったことだ。

 今も明確に浮かぶ光景がある。原爆によって主人公のゲンの父親と兄弟が倒壊した家の下敷きになり、それでも父親が逃げろと怒る。最初に読んだ級友がそのコマを指差し、回し読んだ仲間が次々と黙り込んでゆく――。

 10代の初めの頃のその体験が無駄だったとは思えない。

鯉を盗んだゲンが叫んだセリフ

 異和感というなら、今回の削除に関して筆者が覚えたのは全然別のことだ。

 大学教授や学校長らでつくる改訂会議が指摘した問題点のひとつは、栄養失調になった母親に食べさせるために、ゲンが池の鯉を盗むシーンだったという。

 半世紀前のことでも、小学生の時に受けた衝撃は今でも残っている。今回、このシーンを削除させた大人たちは、筆者がすぐ思い出した別の場面でゲンが叫ぶセリフを読んでいなかったとでもいうのだろうか。

 「ち、ちくしょう ドロボウをしなくてはいけないようにしたのは戦争じゃ ピカじゃ あいつら悪くないんじゃ 悪くないんじゃ~っ」

「曽我豪の一石」は今回で終わりです。「こちら」からすべての記事がお読みいただけます。