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政治正義(ポリティカル・コレクトネス)がもたらす思考停止をどう脱するか

下條信輔 認知神経科学者、カリフォルニア工科大学生物・生物工学部教授

 政治正義による思考停止が、抜き差しならないところに来ている。

 政治(的)正義とは、欧米で言う ”political correctness”の直訳だ。しかし語感からすれば、単に「正義」あるいは「平等主義の正義」とする方がわかりやすい。「マイノリティー(弱者、障害者)を差別してはならない」「差別につながるものは悪」というのが、直截(ちょくせつ)のメッセージだ。

 政治正義については本欄でも、「美味しんぼ」問題に絡めて簡単にふれたことがあった(本欄「続・漂流するポスト3.11~『美味しんぼ』問題の本質と『政治的正義』」)。コミック「美味しんぼ」で、 福島第一を取材した主人公が疲労感を訴え鼻血を出すシーンが、やり玉に挙げられた。また「福島は人の住める場所ではない」とする大学研究者や前町長の発言を、実名入りで引用した。それらが「風評被害をあおる」「地域住民を差別するのは悪」と批判された。まさに政治正義の立場からの批判だった(少なくとも表面は)。

 だが反対の極にもうひとつの政治正義があって、問題を複雑にした。「そもそも原発そのものが悪」「住民の家と町を奪い、子々孫々までの健康被害をもたらすことこそが、何にも劣る悪」。そういう政治正義2だ。ふたつの政治正義の相克が評価を分け、世論を混乱させた。

 もうひとつの現代的な例として「ハンディキャップ・クラシックや、ハンディキャップ・アート」にもふれた。演奏家やアート作家が障害者である場合、批評家の立場からはたいへん批判しにくい。差別と見なされることを警戒するからだ。もとより演奏や作品を「障害者だから」という理由でおとしめるのは差別だ。しかし、正当な客観的批評まで遠慮する傾向がある。さらに行き過ぎれば「佐村河内的な」詐術の温床にさえなってしまう。

 これらは個別的な時局問題に過ぎないかも知れないが、より巨視的に見ても戦後日本の政治風土には「政治正義」がはびこり、マクロな思考停止をもたらした。

 たとえば

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